イエスより

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。詩編46:1

御言葉が直接あなたの心に触れ神の平安が宿り愛と喜びに満ちた日々をお過ごしになられますように、お祈りいたします。(初心者で未だ皆様の愛の証言を受け取る方法が分かりませんが、主が多くの奇跡を起こして居られると信じて居ります。GBY!)

苦しみにあずかることを喜びなさい
11月 14, 2012
いえすより
病気の時の励まし
イエス、預言で語る

あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を驚きあやしんではならない。むしろ喜びなさい。わたしはこれらの苦しみを通して、あなた がたの信仰を精錬しているのだから。1 1ペテロ 4:12, 13.  :12愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、  :13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
人生において砕かれ、造り替えられ、謙遜にさせられることは、決して喜ばしいものではなく、むしろ悲しいものと思われるが、後になれば、それによって鍛え られる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。2 ヘブル 12:11. すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせ るようになる。「悲しい」という言葉を辞書で調べると、それらの砕かれ造り替えられ謙遜にさせられる過程がどういうものであるかが、こと細かに説明されて いる。それらは「きわめて深刻で重大な」「過酷な」「この上なく悲痛な」ものなのだ。身に覚えがあるだろうか?
本来ならわたしを賛美する理由など何一つ見つからないような悪い状況に陥った時には、たとえ涙を通してでも、その困難さゆえに喜んでほしい。それらを通し て、わたしがあなたの人生で素晴らしいわざをするとわかっているのだから。そうすれば、あなたを通してわが栄光が表れる時に、あなたは「喜びにあふれる」 だろう。3 1ペテロ 4:13. むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
あなたが無力な時、わたしの力はあなたの弱いところに完全に表れる。4  2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに 宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。これは強力な力であり、またわたしへの大いなる依存のわざでもある。あなたは忍耐という術を習得するため に学んでいるのだ。
あなたがたがおこなった義のわざによってではなく、わたしはただ憐れみによって、この火のような試練からあなたがたを救い出す。5 テトス 3:5. わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。あ なたがわざわいを耐え忍び、それらにもかかわらずわたしへの愛や信頼や、わたしがすべてをうまく取り計らうという信仰を宣言するなら、わたしはそれによっ て栄光を受ける。6マルコ 7:37. 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきける ようにしておやりになった」。
「これらの人はみな、まだ約束のものは受けていなかったが、信仰をいだいて死んだ」7ヘブル 11:13. これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であるこ とを、自ら言いあらわした。という節のことを考えてみなさい。わたしの腕の中に迎えられた子どもたちの中には、解放やいやしの約束を与えられていたもの の、地上ではそれらの約束の成就を目にしなかった者たちがいる。しかし、彼らは信仰を抱いて死んだ。わたしが約束したことを、また成就することができると 信じていたのだ。8 ヘブル 11.下記わたしは自分の約束を果たし、彼らに究極のいやしを与えた。そして天でわたしと再会し、わたしが約束を果たしたことや、「死に至るまで忠実」 だったがゆえに自分たちがどんなに大きな報酬を受けるかを見た時、彼らはどんなに喜んだことだろう。9黙示録2:10. しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たち を教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
信仰には、一部の人が考えているように、常に輝かしい感情や素晴らしい感覚が伴うとは限らない。それには、わたしの言葉を額面通りに信じることを要する。信仰とは、わたしの誠実さや正直さに依存することだ。
信仰の種は、御言葉というカプセルに包まれている。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」10 マタイ 26:39. そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、 わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 あなたが病気の時、信仰は涙を通してこう言う。「わたしは神の測り知れない力が神から出たものであって、わたしから出たものではないことがわかるよう、む しろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」11  2コリント 12:9; 4:7.  12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キ リストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。  4:7しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない 力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。そのようにしてこそ、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれ ても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」12  2コリント 4:8, 9.  :8わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。  :9迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。という姿勢が保てるのだ。
あなたはわたしの宝だ。わたしはあなたを見捨てたり、忘れたりはしない。むしろあなたが通っているこれらすべての経験において、あなたと共にいよう。
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賛美の歌の内に心を引き上げなさい。そうすればわたしは、あなたのなえた手を持ち上げ、弱くなっている膝を強める。13ヘブル 12:12. それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 つらい時期にさしかかった時には、自分がどんな歌を歌えるかについて考え、それを歌い、口ずさみ、耳を傾けなさい。
病気で気分が優れない時には、精神的、心理的、あるいは霊的な活力を要するどんなことをするのも難しいものだ。しかし、わたしを賛美する何らかの理由が常 にある。たとえたった一言であったり、涙を通して賛美するとしても、あるいは自分が心から賛美していないと感じたとしても、とにかくわたしを賛美してほし い。そうすれば、あなたの霊の内で何かが成し遂げられ、あなたの気持ちや、痛みや不快感への対処の仕方に違いが生じることだろう。
信仰は必ずしも気持ちや感情の問題ではない。その兆候は物質面にも表れ、わたしはそれらの兆候を時々あなたに示しはするものの、そのような「兆候」は当て にならない。それらは常にそこにあるわけではないからだ。信仰の表れを目にするのは素晴らしく、それには感謝してしかるべきだが、大いなる誉れはそのよう な表れを目にすることがなくても、信仰を保つ人々に与えられる。「見ないで信じる者はさいわいである。」14ヨハネ 20:29. イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
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発明家や探検家や世界を変える人々が、危険を承知であえて一歩を踏み出し、既知の世界を越えた領域に入るのをいとわないように、あなたが大変な困難のさ中 で、たとえ心でその理由を理解したり把握することができなくても、それでもわたしに信頼することをいとわないなら、わたしに大いなる栄光を帰すことにな る。

体が弱く傷ついたままだったり、病気が治らなかったとしても、なおわたしのいやしの約束を信じるには、大いなる信仰を、物質的な現実をはるかに超えた信仰を要する。あの未知の海の真っ只中で、激しい嵐や恐ろしい危険に翻弄されている、そんな時にこそ奇跡が起こるのだ。
わたしがどのように状況に働きかけるかを何もかも知っていたなら、信仰を持つ必要などあるだろうか? 自分にはほとんど、あるいは全く信仰がないように感 じ、自分の船が波に破壊されて沈みかけていると感じても、しがみついて信じ続けなさい。あなたはこのテストから、何らかの形でより強くなって出てくるだろ うから、見ていなさい。あなたは沈んだりはしないと約束する。
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わたしの力はあなたの弱いところに完全に表れる。そのことに気づき、また経験する方法は、時折弱くなることをおいて他にはない。15 2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに 宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
わたしの言葉の中には、この原則を述べた事例がある。それは、自分が弱く感じたり、弱さを経験した人々の話だ。アブラハムの体は「死んだも同然」16ヘブ ル 11:12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。だったと 言われており、また使徒パウロは熱のこもった口調で、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれる だろうか」17ローマ 7:24. わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。と叫んだ。必死さはしばしば、奇跡ををもたら しわが意思を成就するために必要な要素なのだ。
わたしは地上の生活の困難が戦いにもなりうることを知っている。わたしも地上の生活を経験したからだ。わたしの体が地上で教えをのべ伝えた日々にどんな状 態だったかについて、聖書はあまあり多くを語っていないと言うかもしれない。しかしちょっと立ち止まって、わたしの体の状態と、わたしが天の大広間で過ご していた時の体の状態とを比べてみるなら、地上で過ごした日々にその「格下げ」を通ったおかげで、あなたがたの弱さに共感できるようになったのも、うなず けることだろう。聖書には、わたしが激しい叫びをもって父なる神に呼ばわり、また恐れたと書かれている。18 ヘブル 5:7. キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞 きいれられたのである。わたしには、あなたがこの病気で経験している試練が理解できる。
わたしはすべての歩みにおいてあなたと共にいて、あらゆる試練や闘いを乗り越えるに十分な恵みを与える。時にはほんの「少しの助け」19ダニエル 11:34. その倒れるとき、彼らは少しの助けを獲ます。また多くの人が、巧言をもって彼らにくみするでしょう。 しかもらえないように感じることもあるだろうが、わたしの恵みと助けは、あなたを支え助けるのに十分であると約束しよう。
吹き付ける逆境の風に面しても、わたしがあなたを助けて乗り越えさせるのを見守るなら、それがどんなに素晴らしい信仰のテスティモニーになるか、考えてもみなさい!

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1  1ペテロ 4:12, 13.  :12愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、  :13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
2 ヘブル 12:11. すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
3  1ペテロ 4:13. むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
4  2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
5 テトス 3:5. わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
6 マルコ 7:37. 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
7 ヘブル 11:13. これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
8 ヘブル 11.  :1さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。  :2昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。  :3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るの である。  :4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからであ る。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。  :5信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかし されていたからである。  :6信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるは ずだからである。 :7信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰に よって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。  :8信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。  :9信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。  :10彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。  :11信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。  :12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。  :13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者 であることを、自ら言いあらわした。  :14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。  :15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。  :16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事 実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。  :17信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。  :18この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。  :19彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。  :20信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。  :21信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。  :22信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。 :23信仰によって、モーセの 生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。  :24信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 :25罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待さ れることを選び、  :26キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。  :27信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。  :28信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 :29信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をと おるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。  :30信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。  :31信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。  :32このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろ う。  :33彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 :34火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強 くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。  :35女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されること を願わなかった。  :36なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。  :37あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦し められ、  :38(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。  :39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。  :40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない
9黙示録2:10. しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
10 マタイ 26:39. そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
11  2コリント 12:9; 4:7.  12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キ リストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。  4:7しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない 力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
12  2コリント 4:8, 9.  :8わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。  :9迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
13 ヘブル 12:12. それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。
14 ヨハネ 20:29. イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
15  2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
16 ヘブル 11:12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
17 ローマ 7:24. わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
18 ヘブル 5:7. キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。
19 ダニエル 11:34. その倒れるとき、彼らは少しの助けを獲ます。また多くの人が、巧言をもって彼らにくみするでしょう。

 

主は愛する者を訓練し、・・・・・・・ 

聖書検索 http://www.wordplanet.org/jp/index.htm
聖書用語検索(口語約) http://www.tuins.ac.jp/~takao/biblesearch_k.html
日英音声読み上げ http://www.vector.co.jp/soft/dl/winnt/art/se412443.html
【ヨハネ1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。】
【エレミヤ23:28……わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない。・・・・・・・】

私達が最近学びましたレッスン 29Jun2014
急速に迫り来る「終わりの時の預言の成就」に備えて、主は私たちが主の宮に住み、主に導かれる貴い訓練を受けております。貴い主は私達一人一人を守るために時には耐えがたいとも思われる試練を与えて下さり、二人の心身を弱めそれを通して真に主に譲渡する方法を教えて下さり、十字架に架かる前に地上に残して逝かれた天国の平安へと導いて居られます。
宜しければ、私たちの証言によって、今耐え難く辛い思いして居られる皆様方のために少しでもお役に立てますことを願ってお送り致します。
【マタイ17:20するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。】
【エレミヤ33:3わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。】
【アモス3:7まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。】

私たちの証言 2014年6月
最近受けました主からの貴い訓練

関連する以前の証言  (以前の私たちの病状をご存じのない方のために)
スティーブンは2000年8月に激しい頭痛を伴う高熱と強い意識障害と硬直性全身麻痺で緊急入院し視床下部の脳膿瘍と診断され、緊急手術を要しましたが、予定をしました3回の緊急手術も重篤で延期されて菌種が分からないままに何種類もの抗生剤の点滴を24時間通して行いました。しかし効果無く、2つ目の膿瘍が右側頭部に出現し、全ての言葉を忘れる深刻な状態になりましたが、10月21日、突然主に奇跡によって、劇的に読み、書き、理解する記憶が蘇りました。
入院時、視床下部にありました膿瘍の圧迫で視力が徐々に落ち3日を過ぎて視力が回復しないので医師から全盲のトレーニングを始める必要があると説明されましたが、その日から毎朝起床時に【イザヤ43:19 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。】と話され、確信をもって医師に目が癒されると話し、結局右上4分の1の視野欠損に終わり日常生活に問題がありません。担当医も奇跡の癒しを信じて下さいました。TYJ! 証しは受け持ち医や教授回診、同室の人たちから始まって、その後車椅子で医局や看護詰所、事務局、そして廊下や屋上でと可能な限りポスターを配布し、その後、外出許可を受けて近くの商店街へも出向きました。今思えば懐かしい思い出です。
結局、脳膿瘍が縮小しないままに、リハビリによって少し筋力が回復しましたスティーブンは点滴を中止し車椅子で11月初旬退院をしました。 (当時の出来事http://wp.me/PUFnj-2)
退院後、杖を突きながら証しをすることで徐々に筋力が付き、街頭で日本語と英語の「終末における最後の印」「全ての人に必要なのは愛」のポスターや、その後出版された「666」のトラクト等を配布し続けております。
取り分け、より迫って参りました「時の印」を通して、聖書は神からの愛と希望のメッセージであり、イエスを心の宮に住んで頂き、聖書を読み心の内に蓄えることによって、聖書に書かれた御言葉やイエスが語って下さいます生きた御言葉で日々私たちを導いて下さり、イエスが十字架に架かる前に残して逝かれた天国の平安をしっかりと受け止め、愛と歓びに満ちた日々を過ごせますとお伝えし続けて居ります。
しかし徐々に筋力が衰えてきて5年(2009)程前からはポスターの配布に壁や柱の支えが必要となり、2年程前からは突然に倒れたり、壁の支えでも長く立って居れなくなり、時々手すりに腰かけて証しをしておりますが、移動時には時間が掛かります。彼の左半身は以前から強い機能障害がありますが、最近は右半身の筋力も低下し突然に右膝の力が抜けるようになり、ふらつきが増えてきました。それでエスカレーターや駅のホームでは気を使いますが、【詩編91:12彼らはその手で、あなたをささえ石に足を打ちつけることのないようにする。】を要求し祈っております。(07Jul14現在右膝が元に戻りました。TYJ!)
18年前私たちが小さなホームに移った後は、堰を切ったように毎日東京の至る所に出かけて行き、長時間ポスターやトラクトを配布し心躍る日々を過ごしました。そして最近は二人ともに体力が可也落ちてきましたが、主はそれを待って居られて、真の意味での証し、ただイエスに委ね、イエスが私たちを通して皆様方を救われる貴い教訓を学んでおります。主よ感謝します。
【詩編131:1主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。 :2かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。】
【1コリント13:13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。】
の御言葉が私の心に開けますように切に祈ります。

最近の出来事
2000年退院時、医師からスティーブンの病状は徐々に進行すると告げられ覚悟はしておりましたが 2013年9月起床後突然失明し、思考も混乱して殆んど会話が出来なくなり数時間後に回復しました。そして、その一ヶ月程後、25年前に一晩で癒されました私の心臓の痛みが再発し、今回初めて天国に行く前兆ではと感じる程の強い倦怠感が続きました。それで二人で病院に行きました。
診断はスティーブンの病状に対しては検査は可能であるが、治療の方法は無いこと、私は一時血圧が216まで上がり190前後の高止まりで、心不全の症状があるので降圧と心臓の薬の投与が必要と診断されました。 しかし私は25年前に、長年の持病が一晩で癒された奇跡を体験し、その後1年程経って「一度癒されたのに未だ薬を使うのか」と強い調子で叱られた後、現在まで薬を服用しておりませんので、その旨医師に話し、一週間様子を見てとの事でしたが、その後半年を過ぎても190~170程度の高血圧と時に心臓の痛みは続きましたが、(6月現在心臓の痛みは」取れております。TYJ!)主の示されるままに信仰によって薬は使用しておりませんでした。
スティーブンの状態が徐々に低下してきましたので、身障者手帳更新の手続きを始めましたが、それには多くの事務処理が伴い、病院でのCTスキャンやレントゲン写真、心電図、血液検査等が必要となりました。そして数回、朝から病院に出かけることや、検査が長時間に亙った為、極端に疲労した私は、病院で座ろうとした椅子が横に逸れ、立ちあがろうとした状態で仰向けに転倒し後頭部を強打して出血、その後鞭打ち症の症状が出ると言う余分な事まで起こりました。
検査の結果、2000年に二つありました右側頭と後頭部の50㎜大の膿瘍は消えて、左側頭部に前より大きな65㎜大の嚢胞が出来ており脳内浮腫、その他も併発して居りました。それに加えて、約30年程前から、彼の胸椎下部が突出して、時に皮膚が発赤しており2年程前から少しづつ左側にも湾曲しております。2014年4月、今まで痛んでいなかった背骨が持続的に強く痛み出し、手持ちのコルセットで少し軽減はしましたが、脊椎の骨が押し潰れてきたのではと病院に受診することにしました。
症状的には二人共、可也深刻な状態ですから、受診前、スティーブンの新しい脳嚢胞や脳内浮腫、記憶障害等、そして私の心臓病、高血圧、脳強打の後遺症、物忘れ等について改めて必死に主に祈りました。
そして主はいとも簡単に「私は主であって癒す者である。私にできないことはあろうか。」と明確に話されましたので 「わが癒しの力には制限が無い。鍵の力を通して、そう、わが奇跡を行なう力を通して、全ての者が癒しを見出す。」 の約束に縋り、癒しの天使を呼び求め、主の平安を受け取りましたが、脊椎に関しては、引き続き私の “医学的知識” によって新しいコルセットが必要ではと思っておりました。
しかし医師から、長年に亘って変形した脊椎が一挙に潰れることは無いとお聞きし、帰宅後発赤や痛みが消えていて、私の “元看護婦” の知識を通して肉の思いを悟らせて下さり主に謝りました。このようにして霊の内に生きる方法を少しづつ教えて下さいます主に深く感謝し、賛美を捧げます。
病院受診、事務処理に加えて刻々と変化するニュースや、興味深い情報等々に多くの時間を費やして御言葉の時間が少なくなった時、突然に時に 【黙示録13:17この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。・・・・・】の節が去来し「666」の経済システムになったら、買い物をする時どうしたら良いのかという今まで一度も考えたことのない思いが過りました。今まで主が一切の必要を満たして下さる奇跡を再三体験し主の供給に信仰があると考えていましたし、其のことは今まで思いもしなかったことですから自分でも驚き、高き櫓の内に逃げ込み平安を得ました。
この出来事を通して御言葉から離れることの危険性を学び、【箴言4:23油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである】 【エぺソ6:11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。】 がより心に触れました。主よ、あなたからの貴い教訓を忘れることが有りませんように助けて下さい。
5月31日、土曜日主は新しい境地を開いて下さいました。当日も体調が思わしくなく、30分近く誰もポスターを受け取りませんから帰宅しょうとしましたが、突然に 【2コリント5:7わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。】 の聖句が繰り返し繰り返し心に響きました。そして自分の眼で見、感じている一つ一つの事例を示して下さり、私の思い煩いの一切を拭い去って下さって、その後実り多い時間を与えて下さいました。主よ、感謝します。
今、私たちは「洪水」のように押し寄せる、情報、気候、経済、戦争等々、この世の目に見たり聞くこと、感じること全て、思考、思い煩い等々の一切を肉の世界と見極めて、愛の霊の世界に住む特訓を受けているのではないでしょうか。【KJ約イザヤ59:19b敵が洪水のように押し寄せる時、主の御霊はそれに敵対して軍旗を上げるであろう。】 の聖句が去来します。
これらの出来事を通して、主の愛が強く迫り、ご自分の天国の平安を私達のために地上に残して、人間の肉の体で蔑まれ鞭打たれ十字架に架かられた、貴い主のために全てを捧げる決意を新たにしました。そして「イエスの生涯」のシリーズを読み直し、取り分け「初めはなんでもない」ことを通して悪の道に誘う悪魔の策略に敵対して、神の武具で身を守ることがどれだけ重要かを悟らせて下さいました。TYJ!  【エぺソ6:13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 6:14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 6:15平和の福音の備えを足にはき、 6:16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 6:17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 6:18絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。】 主よ、どうぞお導き下さい。
スティーブンのCTスキャンの結果、2000年に二つありました5mm大の右側頭と後頭部の膿瘍 (当時のスキャンでは識別が付かなかったのでしょう) は消えて、左側頭部に65mm大の嚢胞が出来ており脳内浮腫も併発して居りました。診断書には重度化の傾向が有るので3年後に再審査とも記入してありました。それに加えて、約30年程前から、彼の胸椎下部が突出して、時に皮膚が発赤しており2年程前から少しづつ左側にも湾曲しておりますが、2014年4月、今まで痛んでいなかったその場所が持続的に強く痛み出し古いコルセットで少し軽減はしましたが、脊椎の骨が押し潰れてきたのではと思い病院に行くことにしました。
受診前、スティーブンの新しい脳嚢胞や脳内浮腫、記憶障害、そして私の後遺症、物忘れ等について私たちがどのように対処すればよいのか必死に主に祈りました。そして主はいとも簡単に「私は主であって癒す者である。私にできないことはあろうか。」と言われましたので「わが癒しの力には制限が無い。鍵の力を通して、そう、わが奇跡を行なう力を通して、全ての者が癒しを見出す。」に力を得て癒しの天使を呼び求め、主の平安を受け取りましたが、脊椎に関しては、私の“医学的知識”よって新しいコルセットが必要ではと思っておりました。
しかし、医師から長年に亘って変形した脊椎が一挙に潰れることは無いとお聞きし、帰宅後皮膚の発赤や痛みが消えて、私の “元看護婦” の肉の思いを悟らせて下さり主に謝りました。
この世に起こる全ての事は、それが情報であれ、知識であれ、思考であれ、感情であれ、全てが洪水のように押し寄せる敵の策略であり、只、書かれた御言葉と生きた御言葉の内に住む貴い訓練を少しづつ学んでおります。このような方法で霊の内に生きる道を導いて下さいます主に感謝し、賛美を捧げます。
これらの事を通してヘブル12章http://www.wordplanet.org/jp/58/12.htmが強く心に迫っております。この一連の緊迫した出来事は、平安の義の実を結ぶためであり、全ての事に感謝し主を賛美する素晴らしい訓練であること、もう一つ、敵と戦う時、血を流すほどの戦いを少し垣間見て、主が十字架で流された貴い血の故に、より、主の愛を主を通して人々に告げ知らせる器になる素晴らしい訓練の日々と悟らせて頂きました。主よ、感謝します。

今回の出来事
主の訓練は未だ続きました。大切なミーティングに出席する予定のⅠ週間程前、食事中突然に食物が喉に詰まり、暫くして治まりましたが、4日前突然に発熱して38度7分が続き、その時喉に刺さっていた魚の骨の刺激と嚥下障害で水も飲めない状態になりました。それで、出発一日前、又 “私のこの世の知識” が働き、他の人の提案に妥協し薬を飲みましたが解熱せず、出発当日朝病院で点滴注射をする予定でおりました。
さて出発前日午後7時頃には未だ高熱と喉の強い痛みや水も飲めない症状が続いておりましたが、午後10時頃突然に平熱に戻り喉の痛みが消えて食事や水分の摂取が容易になりました。これに関しても、一歩づつ主に聞き従う貴重な訓練がありましたが、長くなりますので、省略致します。
このことを通しても主は私の当然と思っている “常識や知識” を砕く素晴らしい機会として下さいました。主よ、感謝します。 (ミーティング当日痛みは殆んど取れておりましたが祈って頂き、その翌朝、又突き刺さる痛みに、骨が取れていないと感じた直後、「主に癒しを求めたことを疑うのか」と声が聞こえ、謝ると瞬時に痛みが取れました。主が私たちの信仰を強めるためにして下さる小さなことの積み重ねを皆様にお伝えすることは皆様にも起こることですから私の喜びです。) 主よ、感謝します。

追加の出来事
帰宅翌日の土曜日と日曜日、証しに出かけ、より実り多い時を過ごしましたが、日曜日午後9時半頃ベッドに横たわった直後、スティーブンの全身が強く痙攣しましたので、瞬時に敵を制し揺すり起こし、直ぐに発作は収まりました。彼の記憶には残っておりませんでした。
痙攣に関しては2000年の病院退院後2か月程は殆んど夜中頻繁に呼吸が止まり、止まると痙攣が起こるので直ぐに揺り起こし、御国の鍵の剣を振るい癒しの天使を呼び求めましたが、その後回数が徐々に減り最近は発作は有りませんでした。
以前2回大きな痙攣があり、最初は夜睡眠中に呼吸が止まって強い痙攣発作でベッドから落ちた音で目覚めました。舌を噛まないように割り箸を入れる動作の内でも硬直性の強い痙攣は収まらす呼吸が出来ませんでした。私にはかなり時間が経ったように感じましたが、やがて発作が治まり呼吸をするようになりましたので、床にマットを敷き移しましたが、瞳孔は散大し意識も無く、尿失禁までありましたから、直ぐに病院に行こうとしましたが、行かなくて良いと強く言われる主に従い、間もなく意識が回復しその後問題は有りませんでした。しかし2回目、玄関で倒れた時は、瞳孔が殆んど散大しておりましたから、前回発作後、保健証を直ぐ取り出せるように用意しておりました私は、今回は絶対に病院に行くと言いました。それで主は行くことは許可するが昼間で待ちなさいと言われて、その後意識も回復し結局癒されました。
そして今回の出来事です。主は私の “看護職” の知識を通して 「全て世にあるもの、肉の思い」 が神に敵対することがしっかりと身に付くように学びの遅い私に多くのことを起こして下さり失敗しながら学んでおります。主よ、感謝します。
今回、私達に耐えがたいと思われる程の多くの出来事が刻々と起こりましたが、それを通して恐れや思い煩いは主からではなく、全ての出来事、世界情勢、経済情勢等々、それに私達の病気や感情の起伏等も全ては肉の世界であり、只、霊の内にあって主と共に歩む特別な日々を与えていると言われました。
このようにして主は敵と戦って血を流す程の訓練の数々を与えて下さり、迫り来る終わりの時に洪水のように押し寄せる敵の攻撃に対して軍旗を揚げて居られ、主の励ましの内に進んでおります。多くの御言葉が開き、ヘブル12章も生きてきました。 主よ、深く深く感謝します。

素晴しい証しの時
【エゼキエル34:11主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。 34:12牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。 34:13わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。 34:14わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。 34:15わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。】
イエスは私達一人一人の前に羊を携えてこられ、私たちに証しの喜びを与えて下さいます。証しをしていると天使が歌を歌い、人々の心を引き寄せ、イエスが私たちの内にあって人々に愛を囁かれます。
7月6日、モスラムから酷い迫害を受けながらも強い信仰を持ち続けている国から、時の印を伝えるために日本に来られた若い女性2人に逢いました。彼女たちの国のクリスチャンは、全員、終わりの時が近いと信じていると聞き、主に感謝し日本のために彼女たちに感謝しました。
【イザヤ34:16あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。】 http://www.wordplanet.org/jp/23/34.htm
【イザヤ42:9見よ、さきに預言した事は起った。わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう」。】
http://www.wordplanet.org/jp/23/42.htm
【イザヤ48:3「わたしはさきに成った事を、いにしえから告げた。・・・・】http://www.wordplanet.org/jp/23/48.htm
【マタイ16:2イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、 16:3また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。】 http://www.wordplanet.org/jp/40/16.htm
【マタイ24:3-22】http://www.wordplanet.org/jp/40/24.htm
【エゼキエル38】http://www.wordplanet.org/jp/26/38.htm
【ダニエル12:8わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。 12:9彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。 12:10多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。】

今回の一連の死の影を歩む試練の中で主が与えて下さいました救いの言葉
FJWL1:248
終わりの時になると、一人一人がわたしとの強いリンクを持っていることが必要になる。闇が地をおおう時、わたしがあなたがた全員と、できるだけ直接の強いつながりを持っていることが大切だ。
体制の者たちは最新ニュースを聞こうとしてテレビやラジオをつけ、電話をかけないだろうか。わたしもまた、あなたがたに特定の物事を告げるための直接のリンクがなければならない。ニュースで知り、ラジオで聞き、また電話で友人から聞くのと同じぐらいはっきりと、特定の出来事に対する明確な指示を与えられるように。日々の終わりは必ずやって来る。だから、あなたがたが行くべき道を知ることができるように、わたしは、まるで息がかかるぐらい近くで特定の出来事について明確に語れるようでなければならない。
FJWL2:344
もっと信仰がほしいと求めたね? それならわたしの答えに驚いてはならない。サタンがプレッシャーをかけるのをわたしが許しても恐れてはいけない。そうしなければ、あなたの信仰がどうやって試されるというんだい? プレッシャーがなければ、わたしがあげられる信仰を使えないだろう。テストが来なければ、信仰が育たない。試練がなければ、わたしがあなたの内に置いた大いなる恵みが見つからないままになってしまう。花が握りつぶされなければ、甘い香水は生まれない。力強い樫の木が土の中にしっかりと根を張れるのは、ひどい嵐や荒れ狂う風を経験すればこそだ。
人生においてもっと力がほしいと求めただろう? プレッシャーがかからなければ、どうやってあなたを通してわが力をフルに作り出せるというのか? 車輪が回り、押し付けることによって、摩擦が生じ、わたしも、最大出力でわが力を解き放てる。こうして人生で回され、プレッシャーをかけられ、こすられ、摩擦があってこそ、わが力という電流が発火し、最大の力となって出てくる。
こういったテストを通して、わたしはあなたを引き上げるわが強い手を示す。サタンがあなたを狙って自分の最強の軍勢を配置する時にのみ、あなたはわが右手の最大の力を知る。わたしは、サタンが投げ込もうとする穴からあなたを引っ張り上げるのだ。強い妨害を通してのみ、わが強さと力があなたの人生で最大に発揮される。
天空を見てごらん。惑星と天体は、対立する力を通して軌道を保っているのではないか? 同様に、わたしは、あなたを妨害しようとするこれらの軍勢を通してさえも、あなたをわが意思という軌道に保つことができる。
わたしの力が最も強く現れるのは、あなたの人生における妨害を通してである。これらの試みを乗り越えようと、あなたがわたしによりかかるなら、重荷から翼が生まれるんだよ。
プレッシャーから逃れようとしてはいけない。わたしは、あなたがプレッシャーを利用できるよう助けることができる。プレッシャーを導き、あなたを通してわが力を作り出せる。あなたは祈りの力を通してこれをするんだよ。祈り、わが約束を要求し、互いに頼り、支え合うことで、そのすべてを乗り越えられる。だからプレッシャーをうまく導きなさい! あなたの祈りの力を通して、わたしはプレッシャーを活用できる。あなたの中にわが力という電流を起こせるからだ。
もっと多くの力を求める時、その力を作り出すために必要なプレッシャーを恐れてはいけない! ただプレッシャーをうまく導いて、信仰の内に進み続けなさい。そのプレッシャーの結果もたらされる力の波を思って、大喜びしたらいい。

+ + + + + + +

時に叶ったイエスの囁きと御言葉で死の影を歩んでおりました私達は蘇り掛けております。主は生きて居られ私たちを励まし力付けたいと願っておられることを実体験しましたのでお伝えしております。それはあなたにも起こることなのです。
イエスの愛と歓びと私たちの深い感謝と祈りをこめて
スティーブン&てい子  11Jul2014
追伸:ブログ
http://lovingjesus7.wordpress.com/ 時の印の聖句
https://stvtab.wordpress.com/
http://lovingjesus777.wordpress.com/ メモリーブック日々の暗記

 

 

 

あなたは優れたスポーツマンか?

アサイド

  昨今、聖書の預言の成就が加速し預言者ダニエルが悟れなかったダニエル12:8わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。 12:9彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。】 終わりの時の出来事が実現してきました。マタイ24:37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 24:38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 24:39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。】 の預言一つを見ましても明らかに主の来臨の近いことを悟り、幼な子のように単純に主に依り頼む貴い奥義を少しづつ学んでおります。

主よ、私達が絶えずあなたに縋り、聖霊の助けによって、あなたが十字架に架かる前に残して逝かれた平安をしっかり受け止めることが出来ますように助けて下さい。ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 14:27わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな】 

 

2020年に東京でオリンピックが開催されることが決定しましたが、福島の原発汚染はより深刻さを増しております。

今回1972年に開催されましたオリンピックに関連してのデービッド・ブランドバーグの書簡を再読し、スポーツの究極は戦争であることの意味を更に深く悟ることが出来ました。主よ、感謝します。今スポーツ界では極限まで訓練し、中には死と隣り合わせの危険なゲームまでも行なわれております。ローマ帝国の終末期には、人々はライオンが人を殺すのを楽しみましたが、歴史は繰り返され現代に至り、毎日悲惨な出来事が電波によって公開されるようになってきました。又、利己主義、自己満足の霊が氾濫し、見えるものに依らないで信仰によって歩く【2コリント5:7】ことがより困難な時代に入りました。空しいこの世の霊に踊らされないように、以前にお届けしました「肉か霊か」 http://wp.me/P2RaYr-3c のリンクも改めて添付致しました。

 箴言3:5心をつくして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ、:6そうすれば主はあなたの道を導かれる。(口語訳:まっすぐにされる。) 主よ、この御言葉が私たちの心に届き、御心が行われますように 

イザヤ55:8わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。55:9天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。55:10天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。55:11このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。 御言葉が私たちの内にあって働いて下さいますように、あなたの御前に額づき請い願います。

 

 

あなたはすぐれたスポーツマンか?

 

  1.オリンピックは人間崇拝であり、人間の肉体の崇拝である。祭りは人間の精神の崇拝であり、人間の精神の働きと創造、および人間の手の働きの崇拝である。スポーツはもっぱら人間の体の崇拝であり教育は人間の精神の崇拝である。ビジネスは人間の手が作り出したものの崇拝である。神と、神の御霊の崇拝ではなく、人間自身の精神や肉体の崇拝であり、戦争は、それら全てが最後に行き着く究極的なものである! これら全てのものが究極的な形を取って現れるものが、戦争である! 人間の肉体的な雄々しさ、機械をつくる器用さ、戦術上の才能、不屈の精神、それらのものが戦争をひき起こす!

  2.戦争は、人間が崇拝するこれらすべてのものを究極的に結集したものであり、人間はそれらのものを人間の最高の所産と考え、それらのものを最高度に利用しようと努力する! これらの人間が最高のものと考える行為は、人間の最悪のもの、すなわち戦争である! 人間の最悪な破壊的な力、最大の物的な力、最高の意欲、最高の発明的な能力、そして最高の精神力--それを愛国心と呼ぼうと、何と呼ぼうと--、それらの全てが戦争のために用いられ、人間と人間の闘争心がもろにぶつかり合うのである!

  3.オリンピックはスポーツの祭典である--肉の祭典である--肉体の見せ物である! すべての偉大な文明や帝国はスポーツが極端に崇拝された後、崩壊していることは歴史上明確である。・・・・・

  4.スポーツは・・・・・戦争につながる闘争心を持った人間の崇拝である。その本質は争いであり、競走であり、闘いである:すなわち戦争であり、すべては完全な戦争の準備のためのものである!

 5.あの2万人のひとが殺されたニカラグァと工ル・サルバドル両国の戦争は、フットボール試合が導火線になったことは、あなたたちは知っているか? 事実、世界的に有名な作家のアーネスト・ヘミングウェィは、その生涯の非常に長い期間をラテン・アメリカとスペインで過ごしたけれど、彼は、ラテン・アメリカでの戦争は、フットボールかサッカーの国際試合を禁止すれば、大部分が未然に防止することができると言った! それらの試合は彼らを次第に昂奮させ、相手に敵意を燃やさせ、結局彼らの闘争心を最後的に満足させ得るものは、全面戦争以外にはない、ということになるのである!

 6.スポーツの究極的な完成は戦争である! 自分の体が生き残るために、他の人の体を破壊することである! 戦争は闘争的な精神の究極的な完成である:自己保身のために他の人々を破壊することである。スポーツは変装した戦争である。そしてオリンピックはそれらの全てのものを、全く偽りの、反対なテーマ・ソング「平和」の名のもとに、変装して歌いあげるのである! それがオリンピックのテーマである!--それは大きなことではないか! 彼らは心の中は戦争の思いで満ちていながら、平和を口にし、ひたすら戦争の準備をしながら、彼らの体を戦争のために鍛えながら、平和を語っているのである!

 7.事実、最近のニューズウィーク・マガジン(1972・9・4 号、第40頁)誌には、「スポーツの神話」という題の論文が載せられ、ミュンヘン・オリンピック開催中に1800人の科学者たちが会議をもち、スポーツは、肉体を傷つけ合うとともに、実際に闘争心と攻撃心を増幅させるものであると結論している!

 8.従ってスポーツ礼賛は、すべての国で例外なく、ひそかな戦争礼賛である。--人間の究極的な創造物--破壊--の礼賛である!--そしてそれを支持しているのは、戦争屋--体制家の中の体制家--である! スポーツは、あらゆる体制のゲームの中で、最も国家主義的なもの、愛国的なものになった--国家が持つ究極的なゲーム--戦争--をほかにしては! 戦争は、粗暴なもの、暴力的なもの、惨酷なものによって礼賛される:そして世界が最も愛するスポーツは、最も粗暴なもの、最も暴力的なもの、最も惨酷なもの、最も破壊的なものであり、なかんずく戦争である! アメリカは、スポーツと戦争の二つのものの、地上における最大のスボンサーである。だから最も罪を問われるべき存在である! そして主が最も憎まれるものが、それらのものである。すなわちスポーツと、超自然主義と、戦争である!

  9.神の子たちとは、一体何であろうか?--それは、平和の子、イエスを愛し、貧しい者、弱い者を愛する者たちである! われわれはスポーツにどんな態度を取るべきであろうか。そしてわれわれはオリンピックの中でどんな場所を占めているであろうか。--もちろん、われわれはオリンピックに反対であり、人間崇拝に反対であり、富んでいる者を更に富まし、貧しい者を滅亡させる!--彼らの上に禍いあれ! 神の子はすべて彼らを非難すべきである! それらすべて、地を滅ぼすものを神が罰したまわんことを!--戦争というすべての「すぐれたスポーツ」を、であり、すべての世界を浪費するものを、である! 人間の最も好むスポーツは戦争である!

  10.あなたはすぐれたスポーツマンであるか。--悪魔は、最初に現れたすぐれたスポーツマンであった! 彼は、エデンの園に闘争を持ち込んだ。カインは、その肉体的な力の発揮というスポーツの形で自分の仲間、彼自身の弟を殺す最初の人になった。殺人は、人が最も好むスポーツになった!--それがより激しくなったので、神は洪水をもってそれらの愚かなゲームを洗い流されなければならなかった!--そしてノアは、自分の命を救うために、船に乗って水上を漂わなければならなかった!

  11.アプラハムはスポーツを好まなかった。彼は、自分の牧夫たちとロトの牧夫たちのあいだに争いが起るのを避けるために、彼らを接触させないように、引き離した。ヤコブは、自分の手を上げて神と組打ちをしようとしたので、不具にさせられ、一生その不具を解かれなかったので、二度とそれをしようとはしなかった。ヨセフの兄たちは、素晴しいスボーツのつもりで、ヨセフを穴の中に突き落とし、そのためにその敵たちの奴隷にならなければならなかった! モーセは単純なスポーツでもするような気持で、エジプト人たちを殺したので、そのために、彼自身一生逃げまわっていなければならなかった。

  12.巨人チャンピオンのゴリアテは、素晴しいスポーツでもする気持で、神の子たちに挑戦し、自分の相手をする者があるか、と呼ばわった。そこで少年ダビデがロック・コンサート(石の音楽会)でこれに応じ、彼の希望どおりに、彼のスポーツマンとしての経歴に終止符を打ってやり、彼はそのチャンピオンシップを失うことになったのであった。知恵と平和の人ソ口モンは、戦争などに訴えるより、自分の妻たちといろいろスポーツをやる方がずっと安全だと考えた。戦争ではなく、メイクラプである! ローマ人たちは、イエスをなぐさみものにすることを大きなスポーツだと考え、貧しい者の救い主を十字架にかけて殺すという結末に至ってしまった。神殿で両替をする者たち以外は、誰も傷つけるようなことはしなかった平和の君をであった! しかし、その商売人を叩き出したという小さいエピソードが、イエス御自身の地上での生涯に終止符を打つという役割を持つことになったのである!

  13.パウロは最初、クリスチャンたちを迫害するという大きなスポーツに熱中していた。 しかし神はスポーツに熱中していた人を、宗教に熱中する人に造りかえられ、そのために彼の以前のスポーツ関係の友人たちが、彼を殺そうとした。彼の信奉者たちはローマ人たちのゲームに良いスポーツの材料を提供した。例えば、クリスチャンたちと飢えたライオンの群の対決とか、人間の体を燃えるたいまつとして、血なまぐさい得点表を照らし出させて見せる等であった。世界中のスポーツ愛好家たちは、それ以来、クリスチャンたちを一時も安ませてくれないのである。すなわち、戦争屋と平和愛好家の対決という形である!

  14.しかし神は言っていられる、「平和を作る人たちは幸いである。彼らは神の子ととなえられるであろう」神御自身が、人間の大好きなこのスポーツの世界シリーズ--戦争--にもうすぐ終止符を打とうとしていられる! 彼はその敵をノックアウトする最終的な打撃を加え、永遠の平和の全宇宙チャンピオンというタイトルを獲得されるだろう。そしてすべての闘争を永久に終らせ、彼の敵がくわだてるすべてのゲームが行われる場を、永久に無くされるであろう! 神は地上に天国を創造し、其処に正しい者を住まわせられるだろう。其処では何も争いはなく、柔和な者が地を継ぐであろう。マタイ5:5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものだからである。マタイ5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

  15.あなたはすぐれたスポーツマンであるか?--それとも平和をつくる人か? 平和をつくる人は幸いである。何故なら彼らは神の子と呼ばれるであろうから。われわれは血肉に対して戦うのではなく、もろもろの支配と、権威と、力と、やみの世の主権者たち、また天上にいる悪の霊に対して戦うのだからである。エぺソ6:12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。】 神は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた1コリント1:27それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

……それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。1コリント1:29それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。からだの訓練は益するところは僅かであるが、信心は全てに益になるのである。なぜなら信心は、今の命と後の世の命とが約束されてあるからである。だから、あなたたちは、信仰心を強めるために自分を訓練しなさい!1テモテ4:7しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。 4:8からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。

 

  16.(マタイ伝第5章:エベソ書6:12  コリント前書1:27、29 : テモテ前書4:7、8)、 下記挿入

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マタイ第5章

5:1イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 5:2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 5:5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 5:7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 5:8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 5:9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 5:10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 5:11わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 5:12喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 5:13あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 5:14あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 5:15また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 5:16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 5:17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 5:18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 5:19それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 5:20わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。 5:21昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:22しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 5:23だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 5:24その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。 5:25あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 5:26よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。 5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 5:31また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 5:32しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。 5:33また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:34しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 5:35また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 5:36また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 5:37あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。 5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 5:40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 5:41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 5:42求める者には与え、借りようとする者を断るな。 5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

エぺソ6:12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 

1コリント1:27それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 1:29それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

1テモテ4:7しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。 4:8からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。

垣間見る愛の霊の世界

昨今、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難。(マタイ24:21)」の前兆ではと思わせる大きな出来事が頻発しております。しかし貴い主、イエスはそれを乗り越える秘策を次々に打ち出され、イエスが十字架に架かる前に地上に残して逝かれた、天国の全き平安を受け取る術を教えて下さいます。それで、私も少しずつ余分に主から直接の啓示を受け取れるようになりました。主よ、感謝します! どうぞ、一人でも多くの方が主の愛の霊に満たされた平安の日々を過ごされますように、そしてその喜びをご自分の愛する皆様方にお伝え下さいますように、心を込めてお祈りを致します。            神は多くの保護の約束をしておられますが、その中の詩編91編を最後に追加致しました。

まさに計画通り

1月 31, 2013   ジェームズ・マッコンキー

ブルックリン橋の橋梁技術者の話を覚えていることと思います。その技術者は建築工事中に健康を損ない、何ヶ月もの間、部屋の中にとどまらなければいけませんでした。有能な妻が彼の肩代わりをし、作業員たちにその計画を実行させました。そして、ついにこの大きな橋の工事が完成したのです。体が不自由になったその技術者は、橋を見たいと言いました。彼は簡易ベッドに載せられ、橋まで運ばれました。そして、壮大な橋の美しさが余すところなく見渡せる場所に、置かれました。動くこともできずにそこに横たわった彼は、自身の天才的な作品を注意深く見渡し、太い長いケーブル、巨大な柱、地面に固定された力強い固定具に目をやりました。それから、すべての梁、桁、ロープ、ロッドを厳しい目で見つめました。すべての詳細が彼の夢見た通りになっており、きっちりと自分の計画と指定通りに念入りに仕上げられたことに、彼は気づきました。橋が自分の設計通りに正確に完成したことを知って、魂が達成の喜びに満たされた彼は、喜びに溢れ恍惚として叫びました。「まさに計画通りだ! まさに計画通りだ!」

いつの日か、私たちは栄光の内に立ち、主の御顔を見上げて、こう叫ぶのです。「神よ、私が自分のわがままで頑固なやり方から向きを変え、あなたの愛情深い完璧なやり方へと向くようにして下さったことを感謝します。あなたに人生を委ねるよう導いて下さったことを感謝します。毎日毎日、素朴な奉仕の小道を歩む私に、あなたが私の人生のために持っておられる大いなる計画の黄金の糸を一すじ一すじ集めさせて下さったことを感謝します。大きな山へとくねくねと続く小さな小道のように、人生の小道が闇にさしかかった時も光に照らされる時も、嵐の時も影の時も、弱い時も涙を流している時も、失敗の時もよろめいた時も、あなたは最後には私を目的地まで導かれました。私は今、すでに終わった自分の人生を見て、もはや『鏡に映して見るようにおぼろげに』見るのではなく、あなたご自身の素晴らしさを顔と顔を合わせて見ています。そして、神よ、それがまさに計画通りだったことを感謝します。まさに計画通りでした。」

もちろん、私たちは神の大いなる御心を逃すことのないよう、注意深く、熱心に歩まなければなりませんが、心配してはいけません。私たちはただの弱く誤りを犯しやすい人間に過ぎないので、その計画の細々とした所を間違うかもしれません。でも、これを覚えておくべきです。神は、人の心が神に対して正しい時には、見事に間違いを覆して下さるのです。それが究極的に重要なことです。私たちの人生に対する神の愛に溢れた目的を損ないうる態度を一つ見せるなら、それはその人生と、人生への偉大なる愛あふれる御心に委ねるのを拒むことになります。けれども、その人生が心の底から委ねた時、道の途中で犯した、人間の弱さと誤りやすい性質ゆえに生じた間違いは、私たちがその小道を進むにつれ、神が優しく、そして恵み深く正して下さいます。それは船を案内するようなものです。舵にかかった私たちの震える手は、進路から船をわずかにそらせてしまうかもしれません。私たちにとっては、それが実際よりももっと大きなずれに見えてしまうものです。けれども、最善を尽くして、神の御心という北極星に進路をしっかりと固定するなら、船は航海の途中で降りかかった軌道の逸れにもかかわらず、目的地の港まで確実に到着します。

ここで、私たちは極めて重要な質問に直面しています。「私の人生のための神の計画を、どのように確認できるのだろう? どうすれば間違わぬように予防手段をとれるのだろう? 神の導きと、私自身の肉の願いや野望という誤った導きとを、どう見分ければいいのだろう? 私が歩むようにと神が召しておられる道を、どうやって見つければいいのだろう?」 答えは先ずこれです。「信じなさい!」

私たちほとんどが持つ問題は、神が私たちのためにそのような計画をお持ちであるのを信じないことです。私たちは自分の道を選んでしまいます。自分の計画を練り、自分の職業を選び、神を全く考慮に入れずに、仕事上の事柄を決めます。そして、私たちの信仰の通りに私たちの身になるのです。これに関して神の御言葉に信仰がないなら、私たちの人生のための神の道を逃す以外の、何を期待できるのでしょう? そして、恵まれ、私たちのために選ばれた道から長いことさ迷い出し、高い代価がかかった後で戻ってくる以外の何を? エペソ2:10(わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである)という言葉は、エペソ2:8(あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である)と同じだけ確かに霊感されています。 人生の計画の約束は、救いの約束のそれと同じだけ明白です。エペソ書の聖句をじっくり考えて下さい。それは明白ですか? それは神の御言葉ですか? そこには、神はキリスト・イエスにあってあらかじめ備えて下さったと書いてありますか? ではそこに落ち着くのです。心をつくしてそれを信じなさい。そこから揺らいではいけません。

繰り返します。祈りなさい!

クリフトン・スプリングス療養所の創立者ヘンリー・フォスター博士は、とてつもない神の力を持つ男性でした。また、生きていくうえでの導きについて、神の思いと方法への深い洞察を持つ人でもありました。その素晴らしい力と知恵の秘密はどこにあったのでしょう? その大規模な施設への訪問客は、一人の年配の内科医によくそう質問したものです。それに対して彼はこのようにして答えました。彼は訪問客の手を取り、二階のフォスター博士のオフィスのドアまで連れて行くのです。そして、来客をオフィスに案内し、その片隅にある小さな小部屋まで連れて行きます。そして、そこでひざまずくと、絨毯の端を持ち上げて、こすれて空いた二つの穴を来客に見せました。神の聖徒フォスター氏が祈りの生活において膝まずき、ほころびて空いた穴です。「これが、神と人に関わる事柄におけるヘンリー・フォスター氏の力と知恵の秘密です。」

友よ、あなたの寝室の絨毯がこのようにすり切れてきたなら、その部屋の住人は人生に対する神の計画を逃しているのではないかと恐れることは、ちっともありません。それが神と歩むことについて多少なりとも知っているすべての人の人生における、知恵と導きの、公然の秘密だからです。知恵に不足している人がいますか? 「神に求めるがよい。」1  【ヤコブ1:5あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。】 あなたは人生における神の計画に関する知恵に不足している人の一人ですか? では、神に求めなさい。祈りなさい、信頼して祈りなさい。着実に祈りなさい。期待して祈りなさい。そうすれば、神は必ず、あなたをその恵まれた場所に案内して下さり、あなたはそこで、救いと同じように、神が選ばれた道について確信を持てるでしょう。

自分で描いた地図に導かれ、自分自身の利己的な快楽や野望の力に駆り立てられ、自分で選んだ港に向かう人生の海に乗り出してはいけません。神の下に行きなさい。信頼と、覆し得ない服従によって、神に人生を委ねなさい。そして、自分自身の意思ではなく、神の御心を行うことを選び始めなさい。そうすれば、その人生のための神の御心を確かに知り、見るようになるでしょう。私たちの主イエスは明らかにこう言われました。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、‥‥わかるであろう。」2  【ヨハネ7:17神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。】 自分自身の意思ではなく、神の御心を選び始めたとたん、私たちは神の御心が何なのかを少しの疑いもなくわかり始めるでしょう。

私たちの人生のための神の御心を見る霊の望遠鏡は、双眼鏡です。二つのレンズが横に並んでいます。一つは、「信じます」で、もう片方は「そうします」です。人がこの両方を目に当てると、曇りがなく明確に神の御心を見ることができるのです。

耳を傾けなさい。あなたの人生のための神の計画を信じ始めなさい。この二つのレンズ、つまり信じる心と委ねた意思を通さない限り、誰も神の御心を見ることはできません。

原文は Life Talks: A Series of Bible Talks on the Christian Life(1911年出版)より2013年1月アンカーに掲載。読み:サイモン・ピーターソン

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1ヤコブ1:5あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。】

2ヨハネ7:17神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。】

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詩編                                                              1:1いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。
そのまことは大盾、また小盾である。
91:5あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、
その災はあなたに近づくことはない。
91:8あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
91:12彼らはその手で、あなたをささえ石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
91:14彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

主との関係

イエスの平安を得て愛と喜びに満ちた人生を辿るために!

贈り物、それとも与え手?

2月 17, 2012  バージニア・ブラント・バーグ

あなたは祝福される方ではなく、祝福だけをほしがっているのでしょうか? 与え手ではなく、贈り物だけを?

ほしいのは主の祝福だけであって、主ご自身は要らないという人や、贈り物だけを追い求めて与え手を見いだしたいと思わない人がいるなんて、信じられない気がしますが、時々そのようなことがあるものです。

人々は自分を完全に明け渡すという、キリストご自身と接触するために必要な条件を満たしたがりません。主の祝福や約束についての本を読み、他の人 に祈りを求め、様々な集会に出席するものの、祈りの内に主と二人きりになって、主が自分とじかに接することができるほど長い時間、開かれた心で主の御前に とどまることはしたがらないのです。

人は主に面と向かうのを嫌がります。主からまっすぐ見つめられ、見逃してほしかった些細な物事について語られるかもしれないからです。人は主と個 人的に向き合いたがりません。主の光に照らされて、まだ心の準備ができていない何かが明らかにされるかもしれないからです。また、個人的な接触を望みませ ん。そのような接触によって必ず求められるであろう代価を、今のところはまだ払いたくないからです。

そしてそれよりも、遠くからついて行く方がいいと考えるのです。主の、白熱し、澄んだ探照灯に近づきすぎるよりは、何か別の方法で祝福を得ようと します。それには代価がかかりすぎ、まだ準備ができていないのに心を探るという作業を要するからです。かの女性が主の御衣のすそに触れた時のように、手を 伸ばして主に触れたりしない方が幸いでしょう。主はきっと振り向いて、「わたしに触れたのは誰か?」と尋ねられるでしょうから。そして人々に知られぬよう 物陰に隠しておきたかったような、幾つかの物事を暴く会話が、それに続くに違いありません。1 ルカ 8:43–48.  :43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。 :44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。 :45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。 :46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。 :47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。 :48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

そう、主に触ろうなどと思わない方がいいでしょう。それは無条件の降伏や、不断の忠誠や、つぶさな内省を意味するからです。それよりは、そこから完全に心を取り去って、心からの信仰ではなく、頭ばかりの信仰を用いる方がいいというわけです。

このような理由から、おそらくは知らず知らずの内に、祝福される方を抜きにして祝福を望み、与え手なしで贈り物をほしがる人がいるのです。けれど も、祝福は頭ばかりの信仰によってもたらされることはなく、与え手なしに贈り物はありえません。キリストご自身がすべての約束の成就であり、すべての問題 の解決策、すべての必要の答であられるからです。あなたはキリストなしには、何一つできません。

あなたは主と個人的な接触を持ち、キリストご自身と個人的に向き合わなければなりません。そしてイエスに触れるのです。与え手なしに贈り物はなく、祝福される方なしに祝福はないからです。

最も手っ取り早く簡単な方法とは、主の白熱した探照灯の光の中に進み出て、あらゆる防御や言い訳をかなぐり捨て、完全に自分を明け渡すことです。他の何らかの方法でそれを得ようと試みたり、天の宝物庫から盗もうとする人は、盗人であり強盗です。2 ヨハネ 10:1.よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。】 神の宝物庫の錠をこじ開けることはできません。扉から入らなければならないのです。その扉とはキリストご自身です。

そこから主ご自身との個人的な接触が生まれるのであり、これこそ究極の祝福、信仰の人生の最大の益、最高の報酬です。あなたは与え手であり王の王であられる方の御前に、まっすぐに進み出ることができるのです。

この接触はあらゆる贈り物にまさって価値があり、この個人的なつながりはどんな祝福をもはるかにしのぐ大きな祝福です。それは物質的な必要を満た すばかりか、霊的な必要をも満たし、栄光に満ちた新たな展望や究極の達成や、キリスト・イエスにおける富のビジョンに向けて、魂の扉を開いてくれるからで す。

祝福を求めていて、「神から受け取りたい」と望んでいる皆さんに、次のような聖句を捧げましょう。それを心の奥深くに浸透させて下さい。これがあなたの人生において成就されるよう心から祈っています。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。」3 詩篇 37:4.主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。

ああ、キリストご自身が、イエスのみが人生で最も必要とされている、唯一の供給の源であることを、神が私たち一人一人に明らかにされますように。そうすれば私たちはさほど重要でない物事を超越することができるでしょう。

ああ主よ、祝福される方なしに祝福は得られず、勝利者であられる主なしに勝利は得られないことを、私たちにお示し下さい。義の太陽なしに光はな く、シャロンのバラなしに芳香はなく、聖なる方なしに神聖さはありえないことを。いやし手なしにいやしはなく、命を与える方なしに豊かな人生はありませ ん。イエスこそすべてであって万物の内に宿られる方、供給の源であり、決して涸れることのない流れだからです。

初版1934年; 2012年2月アンカーに掲載
読み:アンバー・ラリヴァ
翻訳:清水綾子; 校正:Joan K

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1ルカ 8:43–48.  :43 ここに、十二年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代をみな使い果してしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がいた。 :44 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。 :45 イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです」と答えた。 :46 しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。 :47 女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みんなの前で話した。 :48 そこでイエスが女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

2ヨハネ 10:1.よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。

3詩篇 37:4.主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。

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臨死体験

私は、この証言の中で肉体と霊の関係をより深く理解することが出来て感動しました。彼が私は体中に暖かいものと力とが流れるのを感じました。」と同じように、私自身、その一か月程前に、気づかないままに徐々に全身の力が抜けていて、朝、ベッドから起き上がれず転がり落ちた後、無力でベッドに寝たきりの翌朝、足先からじわじわと潮の満ちてくる感触が始まり全身が満たされた後、瞬時に立ち上がることが出来ました。 主よ、あなたの貴い御心と御手の技を感謝し褒め称えます。  

 

夜のダイビング、クラゲ、臨死体験  イアン・マコーマック(ニュージーランド)の話

リチャード・ケント&バル・フォザビー編]より抜粋

私の生活はすべて、スポーツと旅行が中心でした。二十四歳の時、私はニュージーランドの大学で獣医学の学位を取った後、二年間かけての世界旅行を終えたばかりでした。こうして今や私は、サーフィンやスキューバ・ダイビングが大好きな人ならだれでもそうであるように、地上のパラダイスの生活をモーリシャス島で過ごしていました。

私はよく、地元のダイバーたちといっしょにサーフィンや魚釣りに出かけて行き、夜のダイビングにも夢中になっていました。私は地元の気候より寒い気候に慣れていたため、厚さ一ミリの薄い半そでのウェットスーツしか着ませんでした。ただし、地元の人々は、三ミリか四ミリの厚さのスーツを着て、頭から足まですっぽり包まれていました。

 私が兄弟の結婚式に出席するためにその島を出発してニュージーランドに帰ることになっていた日の四日前、その地元の青年たちといっしょに夜のダイビングに出かけました。私は出かけることに少し不安がありました。というのも、水平線上に激しい雷雨が見えたからです。けれども、私は自分を納得させて出かけて行きました。

  その夜、私が海に潜ると、私の持っていたトーチ・ライトが私の真ん前に一匹のクラゲを照らし出しました。私は興味をそそられました。なぜなら、それは普通のタイプのクラゲではなく、「箱形」のクラゲだったからです。私は革手袋の手でそのクラゲを強く握った時、この箱形の有毒クラゲが人間に知られているものの中で二番目に猛毒である生き物だとは、思いつきもしませんでした。その毒で、オーストラリア北部だけでも七十人以上の人々が亡くなっており、その数はサメによって死んだ人の数よりも多いのです。オーストラリアの都市ダーウィンで、この毒クラゲにより三十八歳の男性の心臓が十分間で停止したのです。

  突然、私は前腕にとても大きな電気ショックのようなものを感じました。まるで何千ボルトもの電気のようなショックでした。私は何が起こったのかわからないまま、最悪のことを行なってしまいました。私の腕をこすってしまったのです。しかも、そのクラゲの触手から出る毒素でこすってしまったのです。

 私は船に上がらないうちに、他の三匹の毒クラゲに刺されました。私の前腕は風船のようにふくらみ、触手で刺された箇所には、日焼けしたような水ぶくれが腕中にありました。私の体内で毒が巡り始めると、焼かれるような感じがしてきました。私はリンパ腺がやられて、まるでパンチをくらったようになり、ただちに呼吸困難になりました。私はすぐに病院に行く必要があるとわかりました。しかも、すぐにです! 

  私が五度目に刺された時、ダイバーの一人が私を岸まで連れ戻し、道路の上に私を降ろしました。そこは、その島の、人のいない場所でした。私があおむけに横たわり、毒が回るのを感じていると、静かな声がこう言うのが聞こえました。「もし目を閉じれば、あなたは二度と目を覚ますことはありません」 私は、だれがそう言ったのか全くわかりませんでした。しかし、資格のある水難救助員であり、スキューバのインストラクターでもあった私は、抗毒素をすぐに受けなければ死ぬことになるとわかりました。

  私は何とか病院に行こうとしましたが、それはどう見てもむずかしいことでした。私はお金を全く持っていませんでした。また、私が乗せてほしいとひざまずいて懇願したインド人のタクシー運転手は、私を乗せてはくれましたが、ホテルまで運んでくれただけで、お金を払ってもらえそうにないと思って私を駐車場で降ろしたのです。そのホテルの中国人経営者は、私の腕にある痕跡はヘロインの使いすぎによるものだと思って、彼の車に私を乗せるのも拒みました。けれども、私の酒飲み仲間であった一人の警備員が救急車を呼んでくれたのです。

現れた母の顔 主の祈り

 私が運ばれている間、私の人生が私の前にぱっとひらめきました。私はこう思いました。「私は死ぬのだ。これは人が死ぬ前に起こることで、自分の人生が現れるのだ」私は無神論者でしたが、死後に命が存在するのだろうかと考えました。それから、私の母の顔が私の前に現れ、こう言いました。「イアン、あなたが今どんなに神様から遠く離れていても、もし心から神様を呼びさえすれば、神様はあなたに聞いてくださり、神様はあなたを赦(ゆる)してくださいます」

 かつて私が神様のことで母と話した時から、すでに十年がたっていました。神が存在することを完全に否定してきた十年でした。けれども、母はまだ私のために祈っていたのです。その後、私がニュージーランドに帰った時、私はメモしていたことを彼女に確認しました。神は母に私の顔を見させて、彼女にこう語っておられたのです。

 「あなたの息子が死にかけています。今から彼のために祈りなさい」

 がんこで反抗的な息子のことをあきらめなかった、我が祈りの母のゆえに、私は神に感謝しています。

 この出来事より前に、私は東南アジアを旅行し、百万もの神々を見ていたので、「神様に祈るって、どの神様にだろう?」と思いました。けれども、母の顔は依然としてそこにありました。そして彼女が唯一祈ったのは、クリスチャンの神に対してでした。私は、母が私に主の祈りを教えてくれたことがあったのを思い出し、それを思い起こすくらいならできると思いました。

 それに続いて起こったことは、試験室にいる大ぜいの人々に起こることと同じことです。つまり、私の頭の中は完全に空っぽになったのです。ところが、私は母がこう言っているのが聞こえました。「あなたの心から、息子よ、あなたの心から祈りなさい」私の心から祈りが出て来ました。「神様、もしあなたが現実におられるなら、そしてこの祈りが現実のものなら、私の母が私に教えてくれたあの祈りを私が思い出すのを助けてください。もし私の心の中に何か柔らかくて良いものが残っているなら、どうか私が主の祈りを思い出すのを助けてください」

 私の目の前に、「私たちの罪をお赦しください」ということばが現れました。私は、「これは、私が今まで犯してきたすべての罪を赦してくださるように神に求めなければならないということなのだ」とわかりました。しかし、私はこう言いました。「私は死の床で祈っている偽善者のような気がします。しかし、もしあなたが私を赦してくださることが可能なら、私の罪を赦していただくように誠実な思いであなたに呼ばわります」

 神は聞き入れてくださったようでした。というのも、その祈りの別の部分が現れたからです。 「あなたに対して罪を犯した人々を赦しなさい」かつて私を利用したり、私を中傷したり、私から奪い取ったりした人々を赦すのは、簡単そうに見えました。なぜなら、私は今まで自己弁護したり攻撃的になったりしたことは決してなかったからです。

 しかし、私がそのことを神に話すと、私の顔から三十センチメートルほど離れた所に、その晩、タクシーから私を放り出したあのインド人の運転手の顔が現れました。私を置き去りにして死なせようとした彼を赦すことができるか、とその声は尋ねました。私には信じがたいことでした。私は決してそんなことをするつもりはなかったのです。私が何かをするつもりでいたとしても、彼を赦すことは決してなかったのです! 私が彼のことについてさらに考えるひまもないうちに、私を車に乗せてくれなかったあの中国人のホテル経営者の顔が浮かんで来ました。そして、その声は、私が彼を赦すかと尋ねたのです。

 何と言うことでしょう?! 私は、「これは何か頭の中だけの自分勝手な連想ではない」とわかりました。私はかつて本当のものを求めていました。確かに、今や私はそれを手に入れていたのです。ところが、私が彼らを赦さなければ、それらの顔が消え去ることはなかったのです。さらに私は気付いたのです。「彼らは最後の二人にすぎない。では、彼らより前の諸々の人々のことはどうなのだろう?」と。

 私は、これが現実のことだとわかって、神にこう約束しました。もし神が私の罪を赦してくださるなら、私はこの人たちを赦し、二度と彼らに向かって手を上げることはしません、と。私が彼らを赦すと、彼らの顔が消えました。

 「あなたのみこころが、天において成るように、地上でも成りますように」

私は、「あなたのみこころ? 神のみこころ?」と思いました。それまで私は二十四年間自分勝手なことをしてきたのです! しかし、私は神に約束したのです。もし私がこの経験を経て生き延びるなら、私のための神のみこころを見出して、一生涯神に付き従っていきます、と。

 その祈りをすると、私は神と和解したのだとわかりました。すると、すぐに救急車のドアが開き、私は車いすに乗せられ、病院に運ばれたのです。医者たちや看護婦たちが駆け込んで来ました。彼らは私の血圧を測ろうと二度試みましたが、脈はありませんでした。医者たちは私の命を救おうとして、私に抗毒素剤とブドウ糖の注射をしました。

 私は、私が自分の体から漂い出てしまうなら、そうなってしまうだろうことを意識していました。すなわち、死です。私は、これは決して怪しげな旅行でも幻覚でもなく現実のことだとわかりましたが、自分の体を離れて死ぬ意図は全くありませんでした。私は、もし必要なら、徹夜で目を覚ましていて、私の体の組織の中の毒と戦うつもりでした。

 私は自分が回復用のベッドの上に置かれるのを感じた時、私の両腕の感覚を全く感じることができず、目を開けたままにしていることもできませんでした。私は首を動かすことができず、目は汗でいっぱいで、ほとんど見えませんでした。私は、目を閉じて安堵のため息をついたことを覚えています。

私が病院から確認をとることができていることですが、その時点では、私は十五分間、臨床的に死んでいたのです。私にとって最も恐ろしかったのは、目を閉じた瞬間、私が突然ふたたびはっきりと目が覚めて、私のベッドのそばだと私が思った場所に立っていたことです。真っ暗な闇の中でした。私は、なぜ医者たちは電灯を消してしまったのだろうと思っていました。私は、電灯のスイッチを入れようと思い、壁を探して片手を伸ばしましたが、壁は見つかりませんでした。私はこう考えました。「オーケー、もしかすると、私は一般病棟に移されたのかもしれない」

 もし自分のベッドに戻ることができたら、電灯のスイッチを入れることができたはずですが、私のベッドは見つかりませんでした。私は、しばらくじっと立ったままでいるほうがよいだろうと思いました。しかし、とても暗いために、私の顔の前にある自分の手も見えませんでした。また、たとい私が右手を私の顔のところまで持ち上げても、それがわからないか、あるいは、通過してしまいそうでした。

 「自分の頭がわからないはずはない」と私は自分に言い聞かせ、両手を私の顔のところに置きました。すると、両手は通り越してしまったようでした。それは最も不気味な感覚でしたが、その後に起こったことは、それよりもひどいことでした。なぜなら、私は自分の体のどの部分にも触れることができなかったからです。それでも、私には自分がすべての機能の備わった完全な一人の人間であるという感覚がありました。私には肉体の姿がなかっただけでした。私は実際に自分の肉体の外部にいたのだということが、今はわかります。なぜなら、だれかが死ぬ時、その人の霊は肉体を離れるからです。

 私が次に思ったのは、「いったい私はどこにいるのだろう?」ということでした。というのも、きわめて濃密な悪が、私の周囲のいたるところの暗闇に浸透しているのを感じることができたからです。それはまるで、その暗闇が霊の次元を帯びているかのようでした。そこには完全な悪の存在者がおり、それが私のほうに動き始めました。私はまだ見ることができずにいましたが、その暗闇の中から何かが私を見つめていることを感じ取りました。

 次に、私の右側で、「黙れ!」と叫ぶ声が聞こえました。私がその声から離れるように退くと、別の声が左側から、「おまえはここにいて当然だ!」と叫びました。私は両手で自分を守るようにして、「私はどこにいるんです?」と尋ねました。すると、三番目の声が答えました。「おまえは地獄にいるんだ。今、黙れ」

 地獄は大きなパーティにすぎないと思っている人々がいますが、私はあなたにはっきり言いましょう、そこではあなたが自分のビールをつかむのはきわめて困難になり、自分の顔を見つけるのもきわめて困難になるでしょう! 私はその真っ暗な中で立っていました。永遠のために神への恐れを私の内に入れるまで、そうしていました。

 「なぜ神はあなたをそこへ連れて行かれたのですか?」と尋ねるかもしれません。けれども、神はあとで私に、もし私が救急車の中であの死の床での祈りをささげなかったら、私は地獄にとどまったはずだと語られたのです。罪人の人生の最後の数秒間の祈りを聞いてくださるいつくしみのゆえに、神に感謝します。

 「私は死の陰の谷を歩いても、わざわいを恐れません。あなたが私とともにおられるからです」(旧約聖書・詩篇23篇)

 私が神を私の主また羊飼いとして認めたのは、私が死ぬ直前でした。そして彼は私を導いて、あの死の谷を通り抜けさせてくださいました。この上なく暗い闇の瞬間、一つの明るい光が私の上で輝き、私を引いて外に出してくれたのです。歩いて出たのではなく、超自然的な仕方で上に移されるようでした。私がその光の中へ引き上げられる時、その光は私の顔に触れて私の全身を包んでしまいそうでした。あたかも、その光が真っ暗な闇の中に突き入って、私を引き出してくれたかのようでした。私が振り返ると、その暗闇がいずれかの方向へ次第に消えていくのが見えました。そして、この光の力と臨在が私を引き上げて、私のはるか上にある円形の開いた所へ入れるのを感じることができました。ちょうど、微少なちりが太陽の明るい光線の中で捕らえられるのに似ています。

 即座に、私はその開いた所に入りました。そして、そのトンネルを見下ろすと、その光の源が見えました。その輝き、すなわち、それから流れ出ていた力と純白は、畏れ多いものでした。そして私が見つめていると、いっそう濃密な光の一つの波が、その源から急に発生し、信じられないほどのスピードでトンネルを下りました。まるで、私にあいさつするためであるかのようでした。暖かくて心地良い一つの波が、私の全身を通り抜けました。私は今まで経験したことのないような、信じられないような、心地良い感じを覚えました。

 そのトンネルを半分ほど進むと、光のもう一つの波が急に発生し、私のほうへ来ました。それが私に触れた時、私は、この上なくすばらしい平安が、前の時と全く同じ仕方で私を通り抜けました。それは完全な平安でした。それ以前に私が求めていた平安は、教育やスポーツや旅行など、可能なあらゆることにおける平安でした。けれども、それは私のもとには来ませんでした。ところが、この時の平安は、とどまり続けそうな生きた平安でした。というのも、この光は私の内部に沈殿したからです。

 私が、あの暗闇の中にいた時には何も見えなかったのに、驚いたことに、今や、その光の中で、自分の手が霊の姿のようであるのが見えました。それは白い輝いた光で満ちていました。そのトンネルの終点から来ているのと同じ光でした。私は進んで行きたいと思いました。そして私が動き始めると、光の別の波が来て、純粋な喜びと感激で私は包まれました。ちょうど、ニュージーランドで「最高の興奮」と呼ばれているものです。

 その次に見たことで、私は、「びっくり仰天」しました。それは、白い火のように、あるいはダイヤモンドの山のように見え、描写しがたいほどの輝きできらめいていたのです。私がこの光のトンネルの終点で止まった時、私の左右も上方も虹色の光で完全に満ちているようであり、見渡す限り、無限に伸びているようでした。私は一瞬、この輝きの中心にだれかが存在するのだろうか、あるいは、それは宇宙の中の善の力なのだろうかと思いました。それから、その光の中から声が聞こえ、こう言いました。「イアン、戻りたいのですか?」私は一瞬、それが理解できませんでした。「どこに戻るのだろう?」と私は思いました。けれども、振り向いて私の肩越しに見ると、そのトンネルが暗闇の中へと戻って行くのが見えました。そして私は病院のベッドのことを思いつきました。私は自分がどこにいるのか、わかりませんでした。私から、「私は戻りたい」ということばが出て来ました。その声が応答して言いました。「イアン、戻りたいのなら、あなたは新たな光の中で見なければなりません」私が「新たな光の中で見る」ということばを聞いた瞬間、次のことばが私の前に現れました。

 「神は光であられ、彼の内に闇は少しもない」(第一ヨハネ1・5)

 それは、南アフリカにいた時に私がもらったクリスマス・カードに書かれてあったことばでしたが、私は、それが新約聖書にあることばだとは知りませんでした。私は自分の前にあるそれらのことばを見ているうちに、こう気付いたのです。「この光は神から来ているはずだ。しかし、もしそうなら、私はここで何をしているのだろう? これは何かのまちがいだ、私はここにいるに値しないのだから。

 彼が私の名前をご存知であり、私の思いも話しことばのようにご存知であるのなら、私は彼の御前で丸見えなのだ。彼は、私が今まで人生で行なってきたどんなことも見ることができるのだ。私はここから出て行くところなのだ」

 私は引き返そうとして、岩盤を探しました。その下を這って進むか、自分がいる場所だと思っていたそのトンネルを通って戻るためでした。私が彼の臨在から引き返そうとすると、透き通った光の波が次々と私の上に洪水のように押し寄せてきました。私に触れた最初の波で私の両手と体がひりひり痛んだ時、私は、愛が私の存在の奥深くにまで入って来るのを感じました。私はよろめいてしまうほどでした。それから、もう一つの波が来て、さらにもう一つの波が来ました。私はこう思いました。「神様、あなたは私を愛することはできないはずです、私はとてもたくさん罪を犯してきました、私はあなたを呪ってきました、私はとてもたくさん戒めを破ってきました」

 それでもなお、愛の波は私に来続けました。私が告白してことばを話すたびに、愛の波がそれに続きました。しまいには、私はそこに立って泣いていました。神の愛は何度も何度も私を貫いて洗いました。

 私は、こんな不潔で汚れた人間を神が愛することができるとは信じられませんでした。しかし、私がまだ彼の臨在の中で立っていた時、その愛はますます強くなっていき、ついに私は、もしその光の中に踏み込んで彼を見ることさえできるなら、神がどういうお方かわかるだろうと感じるようになりました。

 私はどんどん近くへ歩いて行きました。突然、その光が広がりました。私が見たのは、両足くるぶしの周囲を、まぶしいような白い衣をまとっておられる方の、はだしの足でした。私が見上げると、その光は彼の顔全体の毛穴から発散されているようでした。それは、あらゆる面から光と力を放つ、輝く宝石のようでした。

 私の前にあるその輝いて澄んだ光景に完全に驚嘆している中で、私は、この方こそ確かに神にちがいないとわかりました。彼の衣は、ゆらめく光そのもので作られているように見えました。私は彼の目を見ようとして歩いて近づき、彼の御前に立とうとした時、彼はあたかもそれを望んではおられないかのように離れて行かれました。

 彼が離れて行かれる時、全く新しい惑星の地球のように見えるものが私の前に現れるのが見えました。

この新しい地球には緑の草があり、神の上にあったのと同じ光や輝きがそれに伴っていました。その野原には、水晶のように透き通った川が流れており、川岸には木々がありました。私の右の方には、起伏のある丘々や山々や青空があり、私の左の方には、花や木々のある草原がありました。それは、あのエデンの園あるいはパラダイスのように見えました。

 私の体のすみずみが、それを飲み込みながら、「私はここの住人なのだ。私はこの場所のために造られたのだ。私はこの場所を探し求めて世界を旅してきたのだ」と言っていました。私は中に入って行って探検したいと思いました。ところが、そうしようとして前に進もうとした時、神が私の前に来られました。彼はこう言われました。「イアン、あなたは見てきましたが、中に入りたいですか、それとも、戻りたいですか?」

 想像してみてください、もしあなたが、死の床で祈った祈りにより、命からがらそこにたどり着いていて、もはや病気がなく、もはや死もなく、もはや苦しみもなく、もはや痛みもなく、もはや戦争もない場所を見ることが可能だとしたら、あなたならどうするでしょうか? 私が言うことを信じてください、私はこの地球に戻る計画は全く持ち合わせていなかったのです。私はこの残酷な世界に別れを告げて、すぐに中に入って行くつもりだったのです。

 ところが、その瞬間、私が振り返って私の肩越しに見ると、私の母が私を見つめている幻をはっきり見たのです。彼女は私の人生で毎日私のために祈り、神の道を私に示そうと努めてきたのです。(私の家族の中で、母だけがクリスチャンでした) 私は、「もし私が今すぐに天国に入れば、母は、私が地獄に行ってしまったと考えるはずだ」と気付きました。なぜなら、私があの救急車の中で悔い改めて私の人生を神にささげたことについて、母が知ることはないからです。

 私はこう言いました。「神様、私は入ることはできません。私は自分勝手な者にはなれません。私は帰って行き、母に、『あなたが信じていることは本当のことです』と告げなければなりません」後ろを振り返ると、私の家族の全員と何千人もの人々が、遠く離れた所へと退いて行くのが見えました。

 私が神に、彼らはだれなのですかと尋ねると、彼は、「もしあなたが戻らなければ、あなたに見えるこれらの人々のうちの多くは、神について聞くチャンスを得ることは決してないでしょう」と言われました。私の返答は、私は彼らを愛してはいないというものでした。

しかし、私がその感情を表現した時、神はこう言われました。「しかし、私は愛しています。そして、彼らが私を知るようになることを望んでいます」どうやって私は戻ったのでしょう? 神は私に、頭を動かし、私の目から液体が流れるのを感じたら目を開けて見なさいと言われました。

私は、私の右目が開き、ベッドの端にいるインド人の医者が鋭利な器具で私の足を刺しているのがわかりました。

 彼が振り向いて私を見た時、彼は恐怖で打ちのめされ、彼の顔から血の気が引きました。そして、「死体が目を開けたぞ」と彼が思っているのが見て取れました。私がまだ、自分が見てきたことを理解しようとしていると、神の御声がささやくのが聞こえました。「子よ、私はあなたの命をあなたに返しました」神に対する私の返答は、もしそれが本当なら、どうか私に体力を与えてくださり、私が首を回して、もう一方の目でも見れるようにしてください、というものでした。というのも、私はこの医者のおびえた顔を見つめてばかりいたからです。

 神は私に左目を開ける力を与えてくださり、私はその部屋の戸口に数人の看護婦たちと用務員たちがいるのが見えました。彼らは戸口のところで立ったまま、口を開けて、じっと見つめていました。私は臨床的には十五分間死んでいましたが、今やとても生き生きとしていたのです!

 私は首を動かそうとしました。そして、「私はこんなに長い間死んでいたのなら、残りの生涯は四肢麻痺患者になる可能性がある」と思いました。私は神に、「私を完全にいやしてくださり、病院から歩いて帰らせてください。さもなければ、私を天国に連れ戻してください」と求めました。

 それから四時間にわたり、私は体中に暖かいものと力とが流れるのを感じました。その翌日、私は完全にいやされた状態で、その病院から歩いて帰りました。私はいやしを信じています。私は復活の力を信じています。

 私は、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架上で死なれ、死人たちの中からよみがえられたことを、そして、彼が復活であられ、命であられることを信じています。

 私が次にすべきことは何だったでしょうか? 私が尋ねるべきお方は、神以外にはいませんでした。神は私に、私は生まれ変わったクリスチャンであり、彼のみことば、聖書を読むようにと言われました。

それからの六週間で、私は創世記から黙示録まで読みました。みことばを読んでいくと、私が天国で見たどんなものも、この本の中に描写されていました。黙示録の一章には、イエス様のことが書かれています。白い衣を着ておられ、御顔は太陽のように輝いており、七つの星がその御手にあります。彼は、アルファまたオメガであられる方、初めであり終わりであられる方です。

 黙示録の二十二章には、命の川のことが書かれています。その川岸には木々があって実を結んでおり、それを飲んだ人々は二度と渇くことがありませんでした。私は、神の臨在の光が新しい天と新しい地球を光で満ちたものとして保っているのを見ました。太陽も月も灯火も必要とせずに、です。それは、彼の輝きと臨在が宇宙を満たすことになるからでした。

 私はヨハネの福音書8・12の箇所で、イエス様が、ご自分は世の光であられ、ご自分のもとに来る者たちはもはや暗闇の中を歩くことはなく、命の光を持つようになる、と言われたことを知りました。

 私は新約聖書の福音書や書簡を読み進め、ヨハネの福音書3・3にある「生まれ変わること」や、罪が赦されていることを確信すること、主の御名を呼び求めることができることについても読みました。そして、イエス・キリストは生きておられることも知りました。

 モーリシャス島でのこの経験をして以来、主は私を、フルタイムのクリスチャンとしてのミニストリーへと導いてこられました。私はしばらくの期間、ニュージーランドで私の姉妹および彼女の夫といっしょに農場で日々を過ごしました。そして、そこで神は私の生活を落ち着かせてくださいました。

 それからの六ヶ月間、私はハミルトンにある私の所属していた地域教会で過ごしました。

 1983年の半ば、私は伝道団体『ユース・ウィズ・ア・ミッション』に参加し、六ヶ月間、彼らといっしょに太平洋を航海し、イエス・キリストの愛のメッセージをその地域に伝えました。

 その後、私は、私が東南アジアに帰ってマレーシアのまだ福音が伝えられていない部族の人々に奉仕することを主が求めておられると感じました。三年間、私はマレーシアのサラワクのジャングルやマレーシア半島で働きをしました。その時期、私の妻となるジェーンと出会いました。彼女はカナダにある彼女の母教会から短期宣教旅行で来ていたのです。

 1988年にニュージーランドに帰る前、私はシンガポールにある教会で牧会スタッフに就いて働きをしました。その後、その同じ年のうちにジェーンと私はカナダで結婚しました。私は、宣教の働きから一年間休暇を取り、その時間を私の妻のためにささげるようにと主が私に言われたと信じています(申命記24・5)。

 その後、私たちはカナダの教会でフルタイムで働きました。ふたたび私の所属していた地域教会で三年間働いた後、主は私に、三年半の間、旅をして私の体験について語るようにと言われました。私たちはそれを実行してきました。

 そして現在、私たちはニュージーランドに落ち着いて、主にお仕えし、家族を養い育てることを希望しています。私たちの人生における神の数々の恵みに、私たちはただ驚くばかりです。

 私たちの願いは、神の無条件的な愛とあわれみのメッセージを、私たちが出会う一人一人に伝え続けていくことです。

 

(イアン・マコーミックは、1982年のこの体験以来、イエスに従っています。イアンはニュージーランドの「神の集会」教会の就任された牧師で、ブルネオの首狩り族や東南アジアの難民キャンプで活動をしてきました。色々な教会の牧師を務め、家族と共に24カ国に旅をして、このテスティモニーを分け合ってきました。)

 

 

 

主はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。詩編46:11

私は引き続きブログの初心者で皆様方が主から示された奇跡の証言を受け取る方法を見つけておりません。しかし多くの方々が主からの啓示やビジョンを受けられて愛と喜びに満ちた日々を過ごして居られることでしょう。主よ。引き続き私たちを守り、より深い愛の神秘に触れることが出来ますようにお導き下さい。

        苦しみにあずかることを喜びなさい
11月 14, 2012

病気の時の励まし
イエス、預言で語る

あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を驚きあやしんではならない。むしろ喜びなさい。わたしはこれらの苦しみを通して、あなたがたの信仰を精錬しているのだから。1 1ペテロ 4:12, 13.  :12愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、  :13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
人生において砕かれ、造り替えられ、謙遜にさせられることは、決して喜ばしいものではなく、むしろ悲しいものと思われるが、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。2 ヘブル 12:11. すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。「悲しい」という言葉を辞書で調べると、それらの砕かれ造り替えられ謙遜にさせられる過程がどういうものであるかが、こと細かに説明されている。それらは「きわめて深刻で重大な」「過酷な」「この上なく悲痛な」ものなのだ。身に覚えがあるだろうか?
本来ならわたしを賛美する理由など何一つ見つからないような悪い状況に陥った時には、たとえ涙を通してでも、その困難さゆえに喜んでほしい。それらを通して、わたしがあなたの人生で素晴らしいわざをするとわかっているのだから。そうすれば、あなたを通してわが栄光が表れる時に、あなたは「喜びにあふれる」だろう。3 1ペテロ 4:13. むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
あなたが無力な時、わたしの力はあなたの弱いところに完全に表れる。4  2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。これは強力な力であり、またわたしへの大いなる依存のわざでもある。あなたは忍耐という術を習得するために学んでいるのだ。
あなたがたがおこなった義のわざによってではなく、わたしはただ憐れみによって、この火のような試練からあなたがたを救い出す。5 テトス 3:5. わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。あなたがわざわいを耐え忍び、それらにもかかわらずわたしへの愛や信頼や、わたしがすべてをうまく取り計らうという信仰を宣言するなら、わたしはそれによって栄光を受ける。6マルコ 7:37. 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
「これらの人はみな、まだ約束のものは受けていなかったが、信仰をいだいて死んだ」7ヘブル 11:13. これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。という節のことを考えてみなさい。わたしの腕の中に迎えられた子どもたちの中には、解放やいやしの約束を与えられていたものの、地上ではそれらの約束の成就を目にしなかった者たちがいる。しかし、彼らは信仰を抱いて死んだ。わたしが約束したことを、また成就することができると信じていたのだ。8 ヘブル 11.下記わたしは自分の約束を果たし、彼らに究極のいやしを与えた。そして天でわたしと再会し、わたしが約束を果たしたことや、「死に至るまで忠実」だったがゆえに自分たちがどんなに大きな報酬を受けるかを見た時、彼らはどんなに喜んだことだろう。9黙示録2:10. しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
信仰には、一部の人が考えているように、常に輝かしい感情や素晴らしい感覚が伴うとは限らない。それには、わたしの言葉を額面通りに信じることを要する。信仰とは、わたしの誠実さや正直さに依存することだ。
信仰の種は、御言葉というカプセルに包まれている。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」10 マタイ 26:39. そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 あなたが病気の時、信仰は涙を通してこう言う。「わたしは神の測り知れない力が神から出たものであって、わたしから出たものではないことがわかるよう、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」11  2コリント 12:9; 4:7.  12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。  4:7しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。そのようにしてこそ、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」12  2コリント 4:8, 9.  :8わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。  :9迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。という姿勢が保てるのだ。
あなたはわたしの宝だ。わたしはあなたを見捨てたり、忘れたりはしない。むしろあなたが通っているこれらすべての経験において、あなたと共にいよう。
*
賛美の歌の内に心を引き上げなさい。そうすればわたしは、あなたのなえた手を持ち上げ、弱くなっている膝を強める。13ヘブル 12:12. それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 つらい時期にさしかかった時には、自分がどんな歌を歌えるかについて考え、それを歌い、口ずさみ、耳を傾けなさい。
病気で気分が優れない時には、精神的、心理的、あるいは霊的な活力を要するどんなことをするのも難しいものだ。しかし、わたしを賛美する何らかの理由が常にある。たとえたった一言であったり、涙を通して賛美するとしても、あるいは自分が心から賛美していないと感じたとしても、とにかくわたしを賛美してほしい。そうすれば、あなたの霊の内で何かが成し遂げられ、あなたの気持ちや、痛みや不快感への対処の仕方に違いが生じることだろう。
信仰は必ずしも気持ちや感情の問題ではない。その兆候は物質面にも表れ、わたしはそれらの兆候を時々あなたに示しはするものの、そのような「兆候」は当てにならない。それらは常にそこにあるわけではないからだ。信仰の表れを目にするのは素晴らしく、それには感謝してしかるべきだが、大いなる誉れはそのような表れを目にすることがなくても、信仰を保つ人々に与えられる。「見ないで信じる者はさいわいである。」14ヨハネ 20:29. イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
*
発明家や探検家や世界を変える人々が、危険を承知であえて一歩を踏み出し、既知の世界を越えた領域に入るのをいとわないように、あなたが大変な困難のさ中で、たとえ心でその理由を理解したり把握することができなくても、それでもわたしに信頼することをいとわないなら、わたしに大いなる栄光を帰すことになる。

体が弱く傷ついたままだったり、病気が治らなかったとしても、なおわたしのいやしの約束を信じるには、大いなる信仰を、物質的な現実をはるかに超えた信仰を要する。あの未知の海の真っ只中で、激しい嵐や恐ろしい危険に翻弄されている、そんな時にこそ奇跡が起こるのだ。
わたしがどのように状況に働きかけるかを何もかも知っていたなら、信仰を持つ必要などあるだろうか? 自分にはほとんど、あるいは全く信仰がないように感じ、自分の船が波に破壊されて沈みかけていると感じても、しがみついて信じ続けなさい。あなたはこのテストから、何らかの形でより強くなって出てくるだろうから、見ていなさい。あなたは沈んだりはしないと約束する。
*
わたしの力はあなたの弱いところに完全に表れる。そのことに気づき、また経験する方法は、時折弱くなることをおいて他にはない。15 2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
わたしの言葉の中には、この原則を述べた事例がある。それは、自分が弱く感じたり、弱さを経験した人々の話だ。アブラハムの体は「死んだも同然」16ヘブル 11:12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。だったと言われており、また使徒パウロは熱のこもった口調で、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」17ローマ 7:24. わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。と叫んだ。必死さはしばしば、奇跡ををもたらしわが意思を成就するために必要な要素なのだ。
わたしは地上の生活の困難が戦いにもなりうることを知っている。わたしも地上の生活を経験したからだ。わたしの体が地上で教えをのべ伝えた日々にどんな状態だったかについて、聖書はあまあり多くを語っていないと言うかもしれない。しかしちょっと立ち止まって、わたしの体の状態と、わたしが天の大広間で過ごしていた時の体の状態とを比べてみるなら、地上で過ごした日々にその「格下げ」を通ったおかげで、あなたがたの弱さに共感できるようになったのも、うなずけることだろう。聖書には、わたしが激しい叫びをもって父なる神に呼ばわり、また恐れたと書かれている。18 ヘブル 5:7. キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。わたしには、あなたがこの病気で経験している試練が理解できる。
わたしはすべての歩みにおいてあなたと共にいて、あらゆる試練や闘いを乗り越えるに十分な恵みを与える。時にはほんの「少しの助け」19ダニエル 11:34. その倒れるとき、彼らは少しの助けを獲ます。また多くの人が、巧言をもって彼らにくみするでしょう。 しかもらえないように感じることもあるだろうが、わたしの恵みと助けは、あなたを支え助けるのに十分であると約束しよう。
吹き付ける逆境の風に面しても、わたしがあなたを助けて乗り越えさせるのを見守るなら、それがどんなに素晴らしい信仰のテスティモニーになるか、考えてもみなさい!

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参考聖句  本文にも挿入しております。 
1  1ペテロ 4:12, 13.  :12愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、  :13むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
2 ヘブル 12:11. すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
3  1ペテロ 4:13. むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
4  2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
5 テトス 3:5. わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
6 マルコ 7:37. 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
7 ヘブル 11:13. これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
8 ヘブル 11.  :1さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。  :2昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。  :3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。  :4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。  :5信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。  :6信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 :7信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。  :8信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。  :9信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。  :10彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。  :11信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。  :12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。  :13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。  :14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。  :15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。  :16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。  :17信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。  :18この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。  :19彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。  :20信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。  :21信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。  :22信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。 :23信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。  :24信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 :25罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、  :26キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。  :27信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。  :28信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 :29信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。  :30信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。  :31信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。  :32このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。  :33彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 :34火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。  :35女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。  :36なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。  :37あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、  :38(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。  :39さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。  :40神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない
9黙示録2:10. しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
10 マタイ 26:39. そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
11  2コリント 12:9; 4:7.  12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。  4:7しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
12  2コリント 4:8, 9.  :8わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。  :9迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
13 ヘブル 12:12. それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。
14 ヨハネ 20:29. イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
15  2コリント 12:9. ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
16 ヘブル 11:12このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
17 ローマ 7:24. わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
18 ヘブル 5:7. キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。
19 ダニエル 11:34. その倒れるとき、彼らは少しの助けを獲ます。また多くの人が、巧言をもって彼らにくみするでしょう。

より明確な預言や啓示を受け取るための訓練を今も受けていることを感謝し主を賛美しております。

神の御心を知る7つの方法

8月 14, 2011

テストや試練や振るい分けの時は、毎回、決断の時となります。クリスチャンにとって、決断とは何でしょうか。あなたは何を探しているのでしょう。神の御心です! ですから問題は、どうすれば神の御心を見出せるのかということです

最初に思い浮かぶ聖句は、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」1 ローマ 12:1–2.  :1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 :2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。というものです。

では、神の御心を見出すためにまず要求されることとは何でしょうか。自分の意思と体と思いを主に明け渡すことです。

私たちクリスチャンは、すでにイエス・キリストに自分の意思を明け渡し、主に決断を下して頂くことに同意したはずです。

主は知っておられ、愛しておられ、気にかけておられる。
何ものも主の真理をかすませることはできない!
主は御自身に選択を任せる者たちに
最高のものを与えられる!

これは聖句ではないかもしれませんが、聖句にかなっています。あなたが主の子どもであり、主に選択して頂くなら、主はあなたのためにどんなものを選ばれるでしょうか。あなたにとって最善で、あなたを幸せにするものを選んで下さるのです。

あなたはこう言うかもしれません。「私は自分の意志を神に明け渡しています。主に人生を委ね、主に信頼しているけれど、まだ主の御心を見出すことができずに混乱しています。問題を理解することすらできないのに、ましてや答を得ることなど到底できません!」

行くべき場所や取るべき手段がわからないなら、ただ出て行ってそれをやり始めなさい。そうすれば、神があなたを導かれるでしょう。舵はボートが動き始めるまでその効果を発揮しないものです。

神の御心を行うことや、神の御心を見出すことは、何もせずにぶらぶらしていることとは違います。忙しく働きなさい! 神に従い、忙しく何かをしているなら、神はあなたを信頼して次にすべきことを告げられるでしょう。けれども、今日すべきことのために精を出して働くのを嫌がっているなら、神はあなたに他のことを何も告げては下さらないでしょう。

「すべてあなたの手のなしうることは、力を尽くしてなせ。」2伝道の書 9:10. すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。中には何もやることを見つけられない人がいますが、それはやることを探してすらいないからです! 事実、そういう人たちは目を閉じてぐっすり眠り込んでおり、すべきことなどには目を向けたがりません。

どのようにして神の御心を見出すのでしょう。神に対して自分を完全に明け渡し、すべてをゆだね、神に対し、自分の意志を完全に譲渡するのです。そうすれば御心がわかるでしょう。

神はしばしば、私たちに厄介な節目をくぐらせられます。そこに長いこと留まるようにはされませんが、そこを通って出てくるのには大きな痛みが伴います。そして神はそこからあなたの最善が引き出されるのを見守られるのです。

神の受け入れ難い賛辞、それは懲らしめや災いです。神があなたにつらい経験やテストや試練を通らせる時、それは賛辞なのです!

神はあなたが耐えることのできないような試練をお与えにはなりません。イエス・キリストの兵士としてつらいテストや試練を通らせる時、神はあなたがそれに耐えられると知っておられるのです! 神はただ、あなたにはそれが可能であるということをあなた自身や周りの世界全体に示すことを望んでおられるのであり、それはあなたの証しの一部なのです。

偉大な神の聖徒、親愛なるブラザー・ミッチェルは、自分の家が火事で全焼した時にこう言いました。「神はあなたを謙遜にするために何かをされ、その後謙遜に保つためにまた別のことをされ、まだ謙遜であるかどうかを確かめるために、さらに別のことをされる。」

神があなたにより多くの物事を任せられるにつれ、あなたが試練に耐えられるとの信頼もまた深まるので、試練はより厳しいものになります。ただ周りの世界にあなたの真価を示すために、そうされるのです! それは神のためのあなたの証しの一部であり、またあなたの妻や夫や子どもや愛する人々への証しの一部でもあります。

以下に神の御心を知るための7つの方法を挙げましょう。これらは必ずしもこの順番通りに示されるというわけではありません。

1) 御言葉
2) 御言葉の声
3) 直接の啓示
4) 敬神的な助言
5) 開かれた扉と閉じられた扉
6) 重荷
7) 羊の毛

1) 御言葉

神の御心を見つけるために最初に探すべき場所とはどこでしょう。それは神の御言葉です。これはよく知られていて、確かで、絶対的な、明らかにされた神の御心です。神が他に何も語られなかったとしても、聖書に基づいて行動するなら、必ずうまく行きます。

まったく啓示を受け取らず、霊の声を聞いたり、異言で話したり、預言を受け取るということも全然なく、知識や知恵や識別力がなくても、あるいはいやしの賜物を持っておらず、奇跡を起すことができなくても、ただ神の御言葉に沿ってことを進めるなら、非常に多くを成し遂げることができます。そしてその間に、他のすべての賜物も与えられることでしょう。

2) 御言葉の声

御言葉の声とは何でしょうか。これまでに御言葉の声によって、神から直接話しかけられたことはありますか? 節を読んでいると、突然に何かの聖句や言葉が、紙面からポンと飛び出して来るかのように心を打ち、こう感じるのです! 「わあ! これは私に向けられたものだ! これこそが答だ!」 その声は非常に大きく、たとえ神があなたの耳元で叫ばれたとしても、これほど力強く語ることはできないでしょう。

それが御言葉を通して語る神の声というものです。それは6000年前の誰かに宛てて書かれたものかもしれませんが、それが突然にあなた自身の核心を突くのです。

御霊がその矢をつかんで弓を引き、ぴゅん!と射ると、それがあなたの心に突き刺さります! それが神の言葉の声です。「主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ。」3詩篇 103:20. 主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ。

3) 直接の啓示

神の御心を示してくれる次のものは、何だと思いますか? それは直接の預言、つまり夢やビジョンや霊の声やメッセージ、そして預言とその解釈です。

神はその御霊により、ある特定の節を通して個人的に語られる時もあれば、聖書以外の言葉を直接に語られることもありますが、私は神が普通は聖句を用いられることがわかりました。

私が神に問題への答を求めると、神は必ずといっていいほど、ある聖句を与えられました。「神はすでに言われたこと以上に、何を言うことができよう? イエスのところに逃れてきた者たちよ。あなたがた主の聖徒らの礎(いしずえ)は、あなたがたの信仰のために語られた神の素晴らしい御言葉の内にあって、何と堅固なことか!4

皆さんの中には、本来すべきほど聖書に価値を見出さない人もいます。そこから自分のために、御言葉の堅い肉を掘り出す方法を知らないからです。ある種のものは、労苦なしには手に入りません! 「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じることのない練達した働き人となって、神に自分をささげるよう努め励みなさい。」5テモテ 2:15 NKJ. あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。

直接の預言に矛盾がなく、それが神の言葉に沿っていることを確かめなさい。それを推し測るのです。その霊を試みにかけなさい。それが神御自身の直接の啓示である、神の言葉に基づいたものであるかどうかを確認しなさい。

4) 敬神的な助言

次は何でしょう? 「助言者が多ければ、知恵に欠けることはない。」6箴言 11:14. 指導者がなければ民は倒れ、助言者が多ければ安全である。4番目は敬神的な助言者です。

主は時に、敬神的な助言者を通して指示を与えられます。彼らは聖書を信じているだけではなく、実際にそれを行動に移す人々、御言葉を聞くだけではなく、行う人々です。7ヤコブ 1:22. そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

ピアノを習いたい人は、ビジネス学校ではなく、弾き方を知っているピアニストのところに行きます。料理を習いたいなら、速記者のところにではなく、料理法を知っていて、おいしい食事を作る人のところに行くでしょう。

ですから、相談相手がほしいなら、成果を上げていて実行力がある敬神的な助言者のところに行きなさい。あなたは彼らが物事に真剣に取り組む人であることを知っているからです。

5) 開かれた扉と閉じられた扉

状況:これは神の御心の判断法としてさほど有効であるとは言えませんが、時にはこれも一つの目安になります。ある人はこれを「開かれた扉と閉じられた扉」と呼んでいます。

状況とは何でしょうか? 第二次世界大戦中、私が家族とイスラエルに行くことはできないと言われた時、その国はどんな新しい宣教師にも扉を閉ざしており、また神はそこへ行くための旅費を供給されませんでした。そのように閉じられた扉を見て、ついにそこは自分が行くべき場所ではないと判断したのです。すると神はその直後に、福音を待ち望んでいる何百万人ものユダヤ人が住むマイアミ・ビーチへの扉を大きく開かれたのでした。

開かれた扉と閉じられた扉は、神がどちらの方向に導いておられるのかを知る助けになります。奉仕のための扉は、どこに向かって開いていますか? どこで仕事が見つかりそうですか? 神はどの方向に向けて道や手段を提供されているでしょうか? そうした事情や状況、開かれた扉と閉じられた扉も、御心を見出すための一つの方法です。

6) 重荷

ここで、6番目の方法、御霊の証しや「個人的な願望」と呼ばれるものにつながります。感情に基づいて行動するのは好きではありませんが、何かが神の御心かどうかを判断する上で、それもまた一つの指標になりえます。

何かが神の御霊から来ているなら、心にある種の確信が沸くものです。すなわち御霊の証しです! ただそれが神の御心であるとわかるのです。それが自分のすべきことだという確信があります。あの心にささやく細く小さな声、内なる確信が!

時としてそれは、聖霊の警告や注意の喚起でもあります。「やめなさい、それをしてはいけません! 気をつけて!」 聖霊がそのように心に大声で叫ぶこともあり、実際の耳には何も聞こえないのですが、それでも神の言われたいことが分かるのです!

7) 羊の毛

時には自分がどんな啓示を望んでいるかを特定することもでき、私たちはこれを羊の毛と呼んでいます。ギデオンもそうしました。彼は地面に羊の毛を置いて、こう言ったのです。「主よ、明日羊の毛が濡れていて地面が乾いていたら、あなたが私に語っておられるのだと信じます。」

けれども、彼はそれでもあまり確信を持てず、二重に確かめたいと思いました。8士師 6:36–40.  :36 ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、 :37 わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。 :38 すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。 :39 ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。 :40 神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。そこでこう言ったのです。「さて主よ、明日になってもし羊の毛が乾いていて、地面が濡れていたら、信じます。」 そして再びその通りになったのでした!

私は主からしるしを受け取るのが好きです。自分が正しい軌道にいるのだと教えてくれるあの羊の毛を。それは神の御心を知る一つの方法です。何らかのしるしや指標を求めなさい。

神の御心を知る方法とは何でしょう? あなたの体を生きた供えものとしてささげることです。そうすれば何が善であって、神の御旨であるかをわきまえ知ることができるでしょう。9ローマ 12:1. 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

初版1968年;改訂・再版2011年8月
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聖書の書き出し

1  ローマ 12:1–2.  :1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 :2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

2伝道の書 9:10. すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。

3詩篇 103:20. 主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ。

4 ジョン・リッポン、1787年

5 テモテ 2:15 NKJ. あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。

6箴言 11:14. 指導者がなければ民は倒れ、助言者が多ければ安全である。

7 ヤコブ 1:22. そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

8士師 6:36–40.  :36 ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、 :37 わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。 :38 すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。 :39 ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。 :40 神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。

9 ローマ 12:1. 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

 

主イエスの助けによって私たちの生きかたもこのようでありますように!

100パーセント

11月 2, 2012

引用句集

私はこれまであちこちで祖父の物語を話してきました。私たちがパパと呼んでいる祖父は、私が知っている最も偉大な神の人の一人です。しかし、彼は私 がこれまで会った内で、最もつらい困難を経験した人でもあります。パパは自分の妻がアルツハイマー病によって徐々に正気を失い、健康も衰えていく様子を、 50年以上も見守り続けたのです。死期が近づいた頃、祖母は祖父に向かって文字通りののしり言葉や卑猥な言葉を叫び始めました。けれども、祖父は想像を絶 するようなさらなる恵みと信仰をもってそれに応じました。祖母の容態にもかかわらず、祖父は毎日老人養護施設に通っては彼女の髪をとかし、施設の人に追い 出されるまで、きれいだよと彼女に告げ続けたのです。

パパは祖母が世を去る1年半前に亡くなりました。彼らの結婚生活の最後の光景は、地上の視点だけで見るなら実に痛ましいものでした。いやしは決して 訪れず、パパは心を痛めましたが、それでも驚いたことに、調子はどうかとパパに尋ねると、毎回同じ返事が返ってきたのです。「100パーセント絶好調だ よ」と。

祖父がそう言うたびに、子供心にそれが気になりました。そんなわけがないと感じたからです。祖父の健康は衰え始めていた上、妻の健康状態はそれ以上に悪化していました。そして彼が人生で愛するものや、一生かけて築いてきたものが何もかもなくなりつつあったのですから。

祖父がそのように言うことができた理由をついに理解できたのは、彼が他界してから数年後のことでした。私はなぜ人生の最悪の時期に彼にそんなことが 言えたのかを深く思い巡らし、祈っていました。まだそれが嘘だったように思われたのです。彼は100パーセント絶好調などではありませんでした。きっと 50パーセントはおろか、10パーセントにも満たなかったことでしょう。

しかし、その時主がある言葉で私に答えられたような気がして、それで180度、私の見方が変わりました。「それはあなたが何を測るかによる」。

状況を測っていたなら、彼は100パーセントではありませんでした。しかし、キリストへの信頼を測っていたなら…将来の天国の家や、いつかすべてが 新しくなるということへの希望を測っていたなら…状況をものともしない、神の彼に対する忠実さを測っていたなら…祖父は常に100パーセント絶好調だった のです。

いつ何時であっても、誰かがどんな調子かを聞き出そうとするなら、100パーセントと答えられる人など誰もいないことでしょう。あなたの状態は周り の状況という飛砂次第で変化します。悪い日もあれば、人生というカーペットが足下から引っこ抜かれるようなことも、人生に何度かあることでしょう。そんな 時には、つい周りの状況と自分の状態は同じであると結論づけそうになります。

そんなことをしてはいけません。

私は皆さんを知りませんし、皆さんがどのような状況に面しているのか、どのような痛みを耐え忍んでいるかはわかりません。わかるのは、皆さんの大半 が、自分は100パーセント絶好調ではないと言うであろうことです。事実、自分の調子は数字で言うならせいぜい1桁程度だと思うかも知れませんが、皆さん がどんなことを通っていようと、私は神が自分に言われたのと同じことを言うでしょう。「それはあなたが何を測るかによる」と。

たとえ難しくても、新たな見解で物事を見ようと決心しましょう。あなたは100パーセント絶好調です。自分のいる状況ゆえにそうなのではありません が、状況にもかかわらず、キリストが100パーセントの時間、100パーセントあなたの味方になって助けて下さるのですから。—スティーブン・ファーティック

*

わが魂よ、主をほめよ。詩篇 146:1

*

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。セラ。詩篇 46:1–3

*

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめ よ。主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむ らせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。主はすべてしえたげ られる者のために正義と公正とを行われる。詩篇 103:1–6

*

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い 煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測 り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。ピリピ 4:4–7

*

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。ヨハネ 14:27

*

行く手に平安が川のように流れようと
悲しみが海の波のように押し寄せようと
どんな運命にあっても、あなたは私にこう言うよう教えられた
無事です、私の魂は無事ですと。

サタンに襲われても、試練が訪れても
キリストが私の窮状を顧みられ
わが魂のためにご自分の血を流されたのだという
この聖なる確信に満ちていられますように!

ああ、この輝かしい思いに喜びあふれる!
わが罪は、一部ばかりかそのすべてが
十字架に付けられ、私はもうそれを負ってはいない
主をほめよ、わが魂よ、主をほめよ!

今後はキリストのためだけに生きることができますように。
ヨルダンの水が頭上で逆巻こうとも
苦痛を感じることはない、あなたは生ばかりか死においても
わが魂に平安をささやかれるから。

けれども主よ、私たちが待ち望むのはあなたの来臨
墓ではなく、空こそが私たちの目指すところ
ああ、天使のラッパが! 主の御声が聞こえる!
それが私の魂の聖なる希望、聖なる休息。

主よ、すぐに来たらせて下さい
信じていたものを目にし、巻物を巻くように雲が消え去り
らっぱが鳴り響いて、あなたが再臨される日を
その時にもやはり、私の魂は無事です。

無事です、無事です
私の魂は無事です。—ホレイショー・ゲイツ・スパフォード

この賛美歌はシカゴの弁護士ホレイショー.G.スパフォード氏によって書かれました。なるほど、シカゴの裕福でやり手の弁護士なら、「私の魂は無事 です」と題されたこのような歌を書けるのもうなずけると思うかもしれませんが、それどころか、[これらの言葉を書いたのは]ほとんど想像もつかないほど悲 惨な出来事を経験した人物だったのです。

ホレイショー.G.スパフォードとその妻アンナは、1860年代のシカゴでかなり名が知られていました。それは単に、ホレイショーの弁護士としての 経歴や職務上の功績ゆえにではなく、スパフォード夫妻は有名な説教師D.L.ムーディーの主要な援助者および親しい友人だったからです。しかし1870年 に、事態は悪い方向に向かい始めました。スパフォード夫妻のたった一人の息子が、4歳の時に猩紅熱で死亡したのです。その1年後に、今度は熱ではなく火が 彼らを襲いました。ホレイショーはミシガン湖の湖畔にある不動産に多額の資金を投資していましたが、1871年のシカゴ大火で、それらの所有財産が一つ残 らず全焼したのです。

この大惨事が自分の家族にどんな損害をもたらしたかを知っていたホレイショーは、妻と4人の娘を連れて英国で休暇を取ることにしました。そして彼ら に休息が必要だっただけではなく、D.L.ムーディーも助けを必要としていました。彼は大がかりな宣教旅行で英国中を回っていたのです。ホレイショーとア ンナは1873年の末にムーディーの活動に加わろうと計画しました。そこでスパフォード夫妻は、11月にニューヨークまで旅をしました。そこでフランスの 汽船ヴィレ・デ・ハーヴ号に乗船して、太平洋を横断する予定だったのです。しかしいざ出航という時に、土壇場でホレイショーの仕事に進展があったために、 遅延を余儀なくさせられてしまいました。せっかくの家族で過ごす休暇をふいにしたくなかったスパフォードは、自分は後から合流するからと言って、予定通り 乗船するよう家族を説き伏せました。そこで、スパフォードがシカゴに戻っている間、アンナと4人の娘たちはヨーロッパに向けて出航しました。ほんの9日後 に、スパフォードはウェールズにいる妻から電報を受け取り、そこには「助かったのは私だけ」と書かれていました。

1873年の11月に、ヴィレ・デ・ハーヴ号は英国の船ロッカーン号と衝突し、わずか12分間で沈没して、226人の犠牲者を出しました。アンナ・ スパフォードは勇敢に甲板に立ち、娘のアニー、マギー、ベシ−、テネッタは必死の思いで母親にしがみついていました。彼女が最後に覚えているのは、押し寄 せる水の力で、赤ん坊が自分の腕から乱暴にもぎ取られたことでした。アンナが娘たちと同じ運命をたどらなかったのは、気を失った彼女の体を、その下に浮か んでいた木の板が安全に支えてくれたおかげでした。沈没船の生存者らが救出された時、スパフォード夫人は最初の内は絶望に暮れた様子でしたが、それから自 分に語りかけるある声を聞いたのです。「あなたは理由あって救われたのだ」と。彼女はすぐに、かつてある友人が言った言葉を思い出しました。「多くのもの を持っている時に感謝して良い人間でいるのは簡単ですが、神の順境の時だけの友人にならないように気をつけなさい。」

この怖ろしい知らせを聞いたホレイショー・スパフォードは、ニューヨークを出る次の船に乗って、娘を亡くした妻と再会しました。バーサ・スパフォー ド(後年生まれたホレイショーとアンナの5番目の娘)の話によると、彼女の父親はその航海中、船橋に来るよう船長に呼ばれたのだそうです。船長は言いまし た。「慎重に計算したところ、私たちは今ちょうど、ハーヴ号が沈んだ水域を通っているんですよ。水深は3マイルです。」ホレイショーはその後自分の船室に 戻って、この素晴らしい賛美歌を書き上げたのです。

その日、スパフォードが書いた言葉は、列王記下4:26からのものです。それらはたった一人の子どもが突然に死んだ時に、シュネムの女が見せた反応 と同じなのです。そこには「彼女は心に苦しみがある」と書かれていますが、それでも彼女は「無事です」と言い続けたのです。そしてスパフォードの歌は、彼 が彼女同様に、主に揺るぎなき信頼を抱いていたことを示しています。

もし自分がスパフォードが通ったような状況にいたらどう反応するかを予測するのは、誰にとっても非常に難しいことです。しかし、彼らを支えられたのと同じ神が共にいて下さることはわかります。

たとえ何が起こっても、私たちがホレイショー・スパフォードと共にこう言うことができますように…

行く手に平安が川のように流れようと
悲しみが海の波のように押し寄せようと
どんな運命にあっても、あなたは私にこう言うよう教えられた
無事です、私の魂は無事ですと。

聖霊の助けによって

ルカ11章13節 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

日々の力より  

 あなたが聖霊で満たされる必要があるのは、あなたが神の愛であふれ、他の人達とその愛を分かち合える力を持つためだけでなく、あなたと主との個人的なコミュニケーションを助けるためでもあります。

イエスは、ご自分の弟子達に、彼らを強め、彼らに力を授け、霊的な生活や主との関係において彼らを導き、指導するために、助け手、つまり聖霊を送ると約束されました。(ヨハネ14章16-18節14:16わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 14:17それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。  14:18わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。

16章7,13,14節)  16:7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。    16:13けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。  16:14御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

イエスが実際の肉体を持って彼らと共におられた時には、彼らが知っていたことは、自分達が主を愛しており、主も自分達のことを愛してくれていることくらい でした。主が共におられることや、主の慰めに満ちた声を聞くのが好きでしたが、それでも、後で主のことを霊の内で知ったほどには、主のことを知ってはいな かったのです! けれども、聖霊についての約束がペンテコステの日に成就した時、弟子達は、主の肉体はもう自分達のもとには存在しないけれど、主の霊は、 今までなかったほどに、より偉大な力を持って彼らと共に存在しているということを発見したのです。それも、ただ彼らと共にいるのでなく、彼らの内にいると いうことを!

初期の頃の主の弟子達のように、主の御霊で満たされたなら、あなたは、弟子達が肉体的に主と共に生活していた時よりも、イエスに近くなり、イエスの真理をもっと理解することができるのです。なぜなら、主の力と主の霊があなたの内にあるからです!